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アンナ・ポリトコフスカヤ『ロシアン・ダイアリー』



2006年10月7日、何者かに殺害されたロシアのジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤAnna Politkovskaya さんの遺作となった「取材日記」。
体系的な著作ではない。取材し、人に会い、日々の出来事を記録する。そこに彼女独特の嗅覚による考察が加えられている。それによってロシアの現状が生々しく伝わってくる。そしてどれほど「人権」を希求し、ロシアにそれが根付くことを祈っていたのか。その思いが彼女の筆致から痛いほど伝わってくる。

序文でイギリスのニュースキャスター、ジョン・スノー氏は述べる。『ロシアン・ダイアリー』を読むと、なるほど彼女は生きるのを許されるはずはなかったのだと。

……私は思わずにいられなかった。西側諸国はいったい何のためにロシアに大使館を置いているのだろう、と。プーチンの企みを知りながら、西側の指導者たちはなぜ頑ななまでに無視したのか。天然ガスが欲しかったのか。あるいはポスト共産主義のロシアが、途方もない安値で叩き得る国家資産や製造関連施設(西側の金融機関はこの大安売りに飛びつき、盗人と変わらない新興財閥の台頭に手を貸した)に心惑わされたか。それとも西側の指導者たちは、貧しいロシア国民にいかなる犠牲を強いてでもこの国の政策を支持しようというのか。


アンナ・ポリトコフスカヤがはるばる取材に出かけ代弁しようとした相手は、これらの貧しい人びとだった。彼女が冒した危険は並大抵のものではないけれども、そうまでして彼女が伝えた事実は凄絶だ。二〇〇四年のモスクワ地下鉄爆破事件で三十九人が死亡したあと、彼女は犠牲者の家を訪ね歩く。すると多くの人の死亡証明書の死因欄にはただ横棒が引かれてあるだけだった。彼女は書く。「国は小細工を弄する。”死因”の欄には線が引かれていた。テロにはひと事も触れていない」




『ロシアン・ダイアリー』序文より(鍛原多惠子 訳、日本放送出版協会) p.7

日々の「記録」が──例えば2004年9月では「ベスランの人質事件で三百三十一名が死亡した」と一行しか書かれていないが、その前後から強烈な「意味」が読み取れる。記録すること。書くこと。このことがとても強靭な「行為」なのである。
僕も何かしら多くの出来事を「記録」したいと思った。できれば意見も加えて。

2月21日
ヴォロネジで、ヴォロネジ医科大学一年生の二十四歳になるアマール・アントニウ・リマが十七か所を刺されて死亡した。ギニアビサワ出身だった。近年ヴォロネジで殺された外国人留学生はこれで七人目になる。犯人はスキンヘッドだった。

ジリノフスキー下院選のスローガンは「われわれは貧乏人の味方だ! ロシア人の味方だ!」だった。これは統一ロシアプーチン自身に引き継がれた。そしてスキンヘッドへ。




『ロシアン・ダイアリー』 p.151-152


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