HODGE'S PARROT

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アメリカ人の「フランスかぶれ」を叱るカミール・パーリア



YouTubeカミール・パーリアの映像があった。動き、話す、パーリアの姿を見てちょっと興奮した。

Camille Paglia on Real Time with Bill Maher


意外に……大人しかったかな(笑)。↓ のようなイメージがあったので。

Vamps and Tramps: New Essays

Vamps and Tramps: New Essays



カミール・パーリアと言えば「ジャンクボンドとコーポレート・レイダー」というエッセーが強烈だった。1991年に発表されたもので、デイヴィッド・ハルプリンの『同性愛の百年間──ギリシア的愛について』をクサしながら、フーコーデリダといったフランスの思想家を批判し、さらにはフランスかぶれのアメリカ人をメッタ切りにする──その文章にとても迫力があった。引用してみよう。

Sex, Art, and American Culture: Essays わたしにいわせれば、七〇年代にフランス思想がアメリカの大学を侵略したのは、六〇年代の革命のつづきなどではさらさらなく、むしろそこからの逃避だったのだ。ロジャー・キンボードの『終身在職権をもったラディカルたち』には、最近の流行にのった軽簿な教授たちの姿がそれにふさわしい軽蔑の念をこめて描かれているが、わたしはその中の一節に修正を加えたい。キンボールによると、六〇年代のラディカルはいまや一流大学の要職についているという。これでは甘すぎる。いまのアメリカの大学に在職する左翼にくらべたら、うちのハッティーおばちゃんのほうがよほどラディカルだ。
六〇年代の真のラディカルたちはほとんどが大学院に進まなかった。たとえ進んだとしても途中でドロップアウトした。たとえなんとか卒業しても、仕事につくのに苦労したり、勤めをまっとうできなかったりした。彼らはあくまでも一匹狼で、孤立し、中心から外れている。いまの大学に巣食う左翼たちは、かっこつけの出世亡者、臆病者の点取り虫だ。単位をとるのに躍起になって図書館通いをしたり、先輩教授にごまをすったりするのに忙しくて、そのあいだに六〇年代は過ぎてしまった。
彼らの政治的な主張はあとからとってつけたもの、手垢にまみれた中古品、パリから輸入された思想に熱中した七〇年代の流行をそのままとりいれたものにすぎない。そういう人びとがトップの座についたのは、システムに異議を申し立てたからではなく、システムにうまく順応したからだ。そういう連中は社畜と同じ。ローゼンクランツとギルデンスターンだ。特権に甘んじるオポチュニスト、流行の波に乗る人びと。(p.286-287)




フランス現代思想に熱をあげているアメリカの学者たちは、まがいもののウィスキーでせいぜい空元気を出そうとする体重四十五キロのへなちょこの青二才である。政治や文化にたいする彼らの無知さかげんにはびっくりしてしまう。フランスの悩みはあまりにも堅牢に築きあげた教育システムにあるが、そんなシステムの中からは強力にしてもごく一面的な理論形態──十七世紀から連綿とつながるもの──しか生まれてこない。(p.293)




わが国のフランスかぶれの連中は、外国のファシズムに嬉々としてへつらい、自分たちの頭の軽さを世界中にさらけだしている。アメリカでは、脱構築などお呼びではない。なぜなら、この国にはどんなたぐいのハイ・カルチャーも存在しないからだ。文学偏重どころか、アメリカ人はいまだに文字使用以前の段階だ。イメージ主導のポップカルチャーがこの国の特徴であり、わたしたちの世代にとってはポップカルチャーこそすべてを包含するパイデイア(教育)だった。
アメリカ人のパーソナリティは礼儀正しさとはほど遠い。やかましく、図々しく、躁病もどきで、軽々しく、楽観的だ。本質的に子どもっぽいところのあるアメリカ人は、はしゃぎたて、臆面もないエゴイズムを発揮する。(p.294)




フーコーのような、口先だけで実行力のないフランスならではのアームチェア左翼は、いつでもむっつりとふさぎこんでいる。彼らは自分の思想の過ちを認めようとしない。なぜなら、気骨のないフランス人は、その思想を現実にぶつけて検証しようとしないからだ。彼らは自分たちの有機的なサイクルにその思想を適用しない。そんなわけで、フランスの左翼が主張するたわごとを、アメリカのこしぬけ学者どもは軽簿にも、もてはやしているという状況だ。アメリカは国中が一丸となって闇の奥になだれこみ、悲劇的な真理を手にして戻ってきたというのに。(p.295)




七〇年代を席巻したフランスの侵略は、左翼主義やほんものの政治意識とは関係なく、古き良き時代のアメリカの資本主義──リベラルな学者たちが軽蔑しているふりをしているもの──に根ざしている。ベビー・ブーム時代がすぎたあとの景気後退と大学の予算削減が原因で、求人市場が崩壊したことから経済的なヒステリーが起こった。教授への手当てがきりつめられるにつれ、金儲けのための自己宣伝や売り込みが優先されるようになった。(p.300)




流れ作業ですいすいと世に送りだされるハイテク評論は、まるでデトロイト自動車産業のような勢いで、アメリカ中に広まりつつある。新製品! 改良品! 来年の新モデル、本日発表!
偽りの進歩主義にかりたてられた大学教授は、熱に浮かされたようにダンスのステップを踏む。急げ、しっかりやれ、遅れをとるな、最先端から脱落するな。だが、人文学は医学や海洋生物学や宇宙物理学とちがって、人間の永遠の真理について研究するものだ。実際のところ、その真理はけっして変わることなく、だが何度もくりかえし発見されるものなのだ。
人文学とは人間の洞察力、閃き、叡智についての学問である。空虚な言葉遊びにふけるフランス人の理論から生まれるのはへりくつ屋、立身出世に汲々として現世での報いを追い求める学者バカだ。そこで幅をきかすのは60年代の左翼主義の延長ではなく、50年代のプレップスクール気質、いやみでこすっからいスタイル、冷たく、いやらしいほどにきどった鼻声、アイビーリーグの俗物性だ。フランス人の思想家はブランドネームをひけらかす。(p.301)



フランス人の学説はコンピュータに組み込まれた思想、スーパースクリーンで、いかなるリスクをも排除する。アイコンをゴミ箱に放り込むマッキントッシュ、せかせかと腹につめこみファーストフードのビッグ・マック。大学のマクドナルド化である。金太郎飴のような画一化、いくらでも替えのきく製品。同じように考え、同じようなことしかいわず、能率第一主義で、威勢だけはいい大学人。学者は融通のきかないコンピュータ技師になりさがり、最先端から脱落するまいと必死になり、最新の機械やほんのちょっと真新しいだけの新製品を嬉々として吹聴する。
フランス人の学説は、誰でも一夜のうちに不動産で巨万の富を手にできるというハウツーもののテープのようだ。先制攻撃こそパワーだ! ぼろもうけをしよう! 宇宙の支配者になろう! パリのこの番号にいますぐ電話を!(p.301-302)




カミール・パーリア『セックス、アート、アメリカンカルチャー』(野中邦子 訳、河出書房新社)より

セックス、アート、アメリカンカルチャー

セックス、アート、アメリカンカルチャー



ところで Wikipedhia en を見ると、パーリアが「Bisexual writers」「LGBT writers from the United States」に分類されていた。え?と思ったが、彼女自身も「a feminist bisexual egomaniac」と名乗っているようだ。
「正真正銘、根っからのマドンナ・ファン」で、ゲイのアーティストやゲイ・カルチャーへの入れ込みようは──強烈な批判も含めて──”true blue”なんだ。




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