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吉田秀和の厳しさ




白水社吉田秀和全集を読んでいる。時間の余裕のあるときに、音楽を聴きながら。

吉田秀和全集(20)音楽の時間 II

吉田秀和全集(20)音楽の時間 II


この第20巻「音楽の時間(2)」には例のあまりにも有名なホロヴィッツ初来日における演奏会批評が収録されている。1983年の「出来事」で、例えばウィキペディアの「ヴラジーミル・ホロヴィッツ」にも簡単に記されている。

来日


ホロヴィッツは1983年に初来日。NHKホールで1回だけコンサートをした。S席50,000円が即日売り切れとなり話題となった。この初来日のコンサートを取材したNHK番組では、プログラム前半終了時の休憩時間にインタビューを受けた音楽評論家の吉田秀和が「ひびの入った骨董品」と評し、ピアニスト神谷郁代は賛辞を述べるなど評価は分かれた。この時、坂本龍一も演奏を聴いていたが、演奏内容にあきれてしまい、途中で席を立ち帰ってしまった。




ヴラジーミル・ホロヴィッツ [ウィキペディア] より


実況でのこのときの発言にどれほどインパクトがあったのか、それこそ「百聞一見に如かず」であるが、それでもこの「ホロヴィッツを聴いて」を読むと、そこに、あまりにも切実で深刻な状況があったのだと、感じざるを得ない。何かが確実に起こっていた。もちろん、ウィキペディアの「1983年」の出来事を見ると、それこそ、日本海中部地震大韓航空機撃墜事件、ラングーン事件などが起こっており、ホロヴィッツの来日については触れられていないが、しかし、この吉田秀和の批評によってホロヴィッツ来日がまさに「事件になった」と思う。それほどインパクトのある批評なのだ。
「ひびの入った骨董品」という言葉がどれほど「非礼で情け知らずの仕打ち」であることを筆者は十分に知りながら、それでも、書かずに(言わず)にはいられないかった──そのことが説得力を持って伝わってくる*1。音楽を聴きながら、チョコレートを食べながら読んでいたこの文章に、いつのまにか没頭していた。

もう一つ(いや、二つ)、非常に緊迫感のある文章があった。「なぜ沈黙するのか」「三たび「芸大事件」考」である。両者とも「芸大事件」に関するもので、音楽関係者としての真摯な態度が滲み出た文章だと思う。ジャーナリスティックと言ってもよいくらいで、「ホロヴィッツを聴いて」の演奏会批評とは異なり、明確な社会批評になっている。
→ 芸大事件 [ウィキペディア]


正直、凄みを感じた。どちらかというと、その温和な風貌と「……かしら」という柔和な言い回しに慣れている僕のような読者にとっては、意外であった。無論、罵詈雑言があるのではない。むしろ「控え目」な言葉を選んでいる。しかしこの文章には、事態の重さを訴えてやまない、強靭さがある。
これは是非読んでもらいたいので引用はしないが、「これはいけません!」「それを全部やめるのですか?」「ミソもクソも見分け難くする危険を生む」「自慢ではないが、無知においては私も人後に落ちない」など、吉田秀和にしては強い口調で「問題」を問い質している姿勢に「凄み」を感じたのは事実だ──そしてそれに感動した。



ところで、ヴァイオリンを習っていた者としては、「芸大事件」についてはあまり良く知らなくても海野義雄という名前は何度となく聞いたことがあった。海野義雄の『バロック・ヴァイオリン名曲集』は、エックレスのソナタをレッスンしているときに(音楽之友社『新しいバイオリン教本4』に入っている)、ヴァイオリンの師匠に薦められて買ったものだし。


バロック・ヴァイオリン名曲集

バロック・ヴァイオリン名曲集


このCDにはヴィターリの『シャコンヌ』やコレルリの『ラ・フォリア』が入っていて、しかもこれらの曲は『新しいバイオリン教本』にも収録されているものなので、とても重宝した。とくにヴィターリの曲は、美しいメロディにヴァイオリンの様々な技巧/運弓が華々しく駆使されていく実に「カッコいい」もので、弾くのも聴くのも大好きだ。モダン・ヴァイオリン&モダン・ピアノによる演奏は、今では稀少価値であろう。タルティーニの『悪魔のトリル』をレッスンして欲しいと師匠にせがんだのも、このCDで聴いて気に入ったからに他ならない。
そういえば僕のヴァイオリンの師匠も、海野氏に教わったようなことを言っていたような記憶がある──記憶なのではっきりとは言えないが、師匠の経歴を思うと多分そうなんだろうと思う。





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*1:巻末解題の筆者付記で「骨董発言」における誤解やニュアンスの相違についても触れながらも、しかし批評自体が受ける「読み方の違い」や、それゆえにこそ批評の創造的な役割があるのだということも述べている。