HODGE'S PARROT

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恍惚/Swoon



トム・ケイリン監督の『恍惚/Swoon』は僕の大好きな映画で、ゲイ・ムーヴィーとしては五指に入るものだ。
ストーリーは、ネイサン・レオポルド・ジュニアとリチャード・ローブという二人の青年が1924年アメリカのシカゴで犯した実際の殺人事件をもとにしている。フリードリヒ・ニーチェの超人思想に影響を受けた彼らは、自分たちの優秀さを示すため、そのためだけに──とされている──「完全犯罪」を目論んだ*1。「自分たちと同じ」裕福なユダヤ人の息子ボビー・フランクスを誘拐して殺害した。身元の識別(identification)を困難にするために、塩酸で被害者の少年の顔とペニスを焼き消した──当時、割礼の痕はユダヤ人男性の「徴」であった。
二人は「天才」であった。 I.Q.は非常に高かった。「飛び進級」により、彼らは十代半で、大学に入学した。レオポルドは15ヶ国語に通じており、鳥類学者でもあった。
そしてレオポルド("Babe" Leopold)とローブ("Dickie" Loeb)の二人は同性愛関係にあった。リチャードとネイサンは左の薬指に同じ指輪を嵌めた。犯行は、二人を一生涯結びつける特別な絆でもあった。

新聞記事が世に出ると、世論は怒りに煮えくり返った。ユダヤ人社会では、2人のような成功した家庭から、かくもおぞましい犯罪者が出るとは夢にも想像していなかった。2人は一流大学の颯爽たる学生で、前途には洋々たる未来がひらけており、犯罪に走る理由は何もなかった筈なのである。作家マイアー・レヴィンは「被害者もユダヤ人だったのが救いだった」と語ったが、2人とも熱心なユダヤ教徒だったわけではない。





レオポルドとローブ [ウィキペディア]


昨日、たまたま『恍惚/Swoon』の映像を──もちろん部分的にだが── YouTube で見つけて、何度もリピートして観た。編集されたものであったが、とても美しく、官能的で、素晴らしかった。そしてなぜ、これほどまでに、このモノクロのインディーズ映画に共振させられたのかが思い出された。

理由なき行為を前にしたとき、司法権力は、いったい何を行うでしょうか。起訴状と論告文は何を語るのでしょうか。そして他方、医師と弁護士は、いったい何を語るのでしょうか。




ミシェル・フーコー『異常者たち―コレージュ・ド・フランス講義1974‐1975年度』(慎改康之 訳、筑摩書房)p.137



冒頭、映画では、ザッハー・マゾッホのテクストが読まれる。なぜマゾッホなのか? と思う。しかしすぐに理解できる。

裁判が始まった。男同士の肉体関係を赤裸々に追求する事から、裁判長は女性は法廷から退出するよう命じた。弁護士は精神科医の分析を盾に、2人が犯した罪の根源は、彼らの異常な性的関係にあったという世論を巧みに操って、2人を絞首刑から救った。同性愛は彼らの”狂気”に他ならないから、死刑にすべきではないとの論陣を張ったのである。結局2人には、終身刑にプラス99年の刑が確定した。




『恍惚/Swoon』劇場パンフレットより

この裁判のための「証拠」として、レオポルドとローブの人種的「劣等性」と精神的「異常性」が、つまり骨相学と精神医学の知でもって、これでもかと露悪的なまでに語られるのだ。言うまでもなく、それは、ユダヤ人の身体的「劣等」と同性愛者の精神的「異常」についての「本質的な証拠」として提出されるものだ──法廷戦術として。しかも「彼らの罪」を訴追する検察側だけではなく、弁護=擁護する弁護士の「言説」も、同様に、奮っている。「彼ら」に対する、身体的、精神的「測定」の過剰なまでの熱意には、圧倒されるしかない。
しかしながら、被告の二人──常に被告である人種的、性的マイノリティの二人は、その法廷に(=公の場に)氾濫する饒舌でグロテスクな「差別的言辞」を、嬉々として浴びているかのようなのだ……美貌の青年たちが肉体的に「劣って」いるわけはない、完全犯罪を目論む男たちが知能的に「劣って」いるわけはない、しかし彼らは本性的に犯罪を犯す「怪物」なのである。

もちろん、ここまで露骨な差別を「演出=装飾」として可能にならしめたのは、監督のトム・ケイリンTom Kalin、1962年生まれ)が、ゲイのユダヤ人/ユダヤ人のゲイであったからであろう。
しかも『swoon』では、登場人物たちが裁判記録どおりのセリフを放つ一方、当時のアメリカでは存在しなかったはずの黒人速記者が登場し、さらにプッシュホンやウォークマンといった「現代的な」小道具も画面に映し出される。この意図的なアナクロニズムは、この映画が、決して過去のことではない、今なお「現実的な」問題を扱っているのだ、というメッセージが、そこにあるのだろう。


Swoon - Trailer

人々が競って人間身体のありとあらゆる部分に「ものさし」(mensura)をあてがい始める。頭蓋測定、脳髄測定、血液測定、筋力測定、眼球測定、耳殻測定、肺活量測定、脈拍測定、痛覚測定……。


イタリアではロンブローゾが、天才(作家、芸術家)、精神異常者、娼婦、犯罪者、ユダヤ人といったカテゴリーに属する人々の頭蓋骨を測定器にかけ、一般値からの偏差を確認するだろう(『天才』一八八九年、『犯罪人類学の応用』一八九二年、『反ユダヤ主義と現代科学』一八九四年)。また、このイタリアにおける犯罪学の始祖は、娼婦と「一般女性」における舌とクリトリスの痛覚を測定し、前者は後者よりも感度が鈍いことを証明するだろう(『女犯、娼婦ならびに一般女性』仏訳一八九三年、『犯罪的女性』仏訳一八九六年)。


フランスではギュスタヴ・ル・ボンが、ポール・ブロカによる頭蓋・脳髄測定の統計結果に依拠しながら、人種や個人における知能の発達を頭蓋の円周や脳髄の重量に正比例させてしまうだろう(「脳の容積変化、ならびにそれが知性とのあいだに保つ関係に関する解剖学的、数学的研究」、『人類学評論』一八七九年)。測定器具は当然のことながら植民地に持ち込まれ、「原住民」の身体にあてがわれるだろう(モンディエール『コーチシナ女性に関する個別研究──人体測定、生理学、社会的地位』一八八二年、ジャン=マリー・コロン『上ニジャールの諸人種に関する民族学、人体測定研究』一八八五年)。パリ北部オワール県のサンピュイで孤児院を経営する反教権主義者ポール・ロバンは、孤児たちの心身発達のためには従来の宗教団体の施設よりもキリスト教を一掃したみずからの教育施設の方が断然優れていることを数値として立証するため、孤児たちの身体に日々測定器をあてがうだろう(『小学校における人体測定法』一八八七年)。


イギリスでは、一八八七年「イギリス・ユダヤ人歴史展覧会」を主催したイジドア・スピールマンが、イギリスのユダヤ人に実施した人体測定の結果を白日のもとにさらすであろう(『イギリス・ユダヤ人の比較人体測定』一八九一年)。フランスにおけるロンブローゾ派の領袖エミール・ローランは、犯罪者の陰茎の長さを測定し、罪状別にその平均値を割り出すだろう(「犯罪者の陰茎」、『犯罪人類学論叢』一八九二年)。
モンペリエではヴァシュ・ド・ラプージェが、ポール・ヴァレリーを助手として古い墓地から掘り起こされた六百個の頭蓋骨を測定し、また、フランスの各地方の高校生の頭蓋のサイズと、イギリスやポーランドの高校生のそれとの比較から実証的な人種理論を引き出すだろう(『アーリア人、その社会的役割』一八九九年)。


ロシアではタルノフスキーが、娼婦ならびに窃盗犯歴のある女性たちの身体を測定し、彼女らの家系を調査し、その血統にはアルコール依存症、梅毒、神経疾患、自殺の発生率が高いことを実証するだろう(『娼婦と窃盗女犯の人体測定学的研究』一八八九年、『女性殺人者』一九〇七年)。やや遅れてシモノー博士は、サン=ラザール収容所に保護された娼婦たちの視力、聴力、記憶力、痛感を測定し、彼女らにおける「生殖の狂気」を結論づけるだろう(『娼婦の生理心理学』一九一一年)。




「測定された犯罪」(菅野賢治ドレフュス事件のなかの科学』より、青土社)p.39-40


Swoon (1992) Vid - This Is Hardcore

生物個体は、みずからの種にとけ込めばとけ込むほど種に対して有益な存在となり、逆にみずからの種を離れ、別の何かになろうとする時、その種の存在自体を脅かす危険因子となる。モレルは、こうした生物学の法則にもとづき、「退化した存在」を一般の健常者集団から区別し、しかるべき隔離の対象として囲い込むことこそが、人類の進歩を順調な軌道に乗せるための必要条件であると考えた。「退化した存在」は、身体の表面、あるいは行動様式のなかに、退化の瘢痕(stigmate)、外観(facies)を露呈せずにはいない。まずは、そうした瘢痕を特定し、それぞれの「退化」の型に照応させなければならない。
モレル以降、十九世紀の医学、衛生学は、こうした「退化の瘢痕」の狩り出しに終始したといって過言ではない。モレル自身は、専門の「精神異常」の領域において人間「退化」の指標を収集、分類し、そのプロセスを究め、対抗措置を練り上げていくだろう(『精神病論』一八五九年、『精神病法医学論』一八六六年)。


しかし、彼のエピステモロジックな視野は、到底精神病理学の一領域に収まるものではなかった。「退化した存在における身体的な変化の恒常性と画一化から判断して、常に一定の仕方で作用し、いくつかの決まり切った型を生じせしめる原因が前もって存在していることは明白である。ただし、人間の正常な型から遠ざかろうとするこれらすべての変種を叙述しようとしても、この種の研究がすべての領域にわたって一般に行われるようにならなければ完全なものにはなり得ない。」(『人類の身体的、知的、精神的退化』)
「私の願いは、医師の数が日増しに膨らみ、その努力が人類の知的、身体的、精神的改良に注がれるであろう、その日を待って、ようやく叶えられることになろう。」つまり、モレルが夢見てるのは、医師が個々の患者との一対一の関係から決定的な一歩を踏み出し、社会、あるいは人類全体に直に向き合う「社会医学」ないし「人類医学」の実現である。その時、医学は、もはや相互の境界を定める必要もないほどもまでに、限りなく「人類学」に重なり合う。


古くから法律用語として「世襲」「相続」を意味したherediteという言葉は、十九世紀初頭(ある辞書によると一八二一年、ジョゼフ・ド・メーストルの『サン=ペテルスブルク夜話』のなかで用いられて以来)、「遺伝」という医学・生物学上の意味を加えた。しかし、十九世紀の医学は、親から子へ、先祖から子孫へ、身体のさまざまな特徴とともに特定の疾病、体質が遺伝することを明らかにしようとしたばかりではない。アルコール中毒、自殺、異常性欲、そして犯罪という人間「退化」の要因が、すべて「遺伝」の産物として科学的な説明の対象たり得ると考えられたのであった。



(中略)



つまり、人類がみずからの内部に巣くう負の遺伝的要素によって「退化」の道を歩みはじめた時、慧眼の医師たちが現れ、負の遺伝要素を摘出、除去し、人類をふたたび「進歩」への軌道に乗せる。そればかりではない。「退化」した遺伝形質が「非常なる興奮性」を介して「犯罪」として表出しそうになった場合、慧眼の医師たちは刑事の衣さえ纏い、犯罪性の病巣をえぐり出し、人類の治安の維持に励むのである。「遺伝」をめぐる一連の物語も、筋書きとしては人類退化理論の一環をなし、「社会医学」「人類医学」の完成というモレルの夢とぴたりと寄り添うものとなっていることがわかるだろう。「退化」「遺伝」「人種」の三概念こそは、まさに十九世紀的人間科学の基底部をなすものであった。
さし当たり人間「退化」の要因を遺伝要素として抱え込んでいると目された存在は、精神異常者、神経症患者、ヒステリー患者、アルコール中毒者、娼婦、そして犯罪者である。




「魂に触れたメス」(菅野賢治ドレフュス事件のなかの科学』より ) p.220-225

反ユダヤ主義はさまよう。バレス、スーリー、ドリュモンが、誰の書物、誰の講義、誰の学説の上で反ユダヤ主義を会得し、その武器庫からいかなる言説を取り出していったかを明らかにすることは、網状組織のごく一部を切り取り、サンプルとして陳列する作業にすぎない。局所的な格子模様がいかに理論として破綻していようとも、綿々たる網状組織は片時も揺らぐことがない。この網は、いかなる方向へ、何に向かって収斂しているのか。病という歴史を扱いながら、菌を含んだイデオロギーを飲み下しながら、歴史家がその病に感染せずにいることは可能か。症状のなかに病因学的兆候を読み取る手続きにおいて、みずから病原菌に感染してしまわないことなど可能なのか。
とりわけ、それが西洋文明の出生、起源そのものに関わる病である時に。




「魂に触れたメス」(菅野賢治ドレフュス事件のなかの科学』より)p.245

この事件の公判はメディアの報道でごった返した。「世紀の犯罪」という陳腐な謳い文句が初めて使われたのはこのときである。ローブの家族が雇った67歳の名弁護士クラレンス・ダロウは、死刑判決だけは出させまいと何年も奮闘した。精神異常を理由に無罪を主張するかと誰もが思ったが、2人とも罪を認めた上での弁護だったので世論は驚いた。陪審裁判だったら間違いなく死刑判決が出てしまうことを見越したため、有罪を認めることによって陪審裁判になることを回避し、たった一人の判事の前で弁護したのはダロウ一流の戦略だった。


ダロウは12時間にも及ぶ弁論をおこなった。この時の弁論が彼の弁護士人生のクライマックスと評価されているのも尤もだった。「この戦慄すべき犯罪は彼個人の体質に発したものです。彼の祖先に起源を持つものです。…ニーチェの思想を真面目に受け止めて実行したからと言って、それを咎めるべきでしょうか? …19歳の少年にとっては、大学で教わった哲学のために殺人を犯すのも無理からぬ話です」





レオポルドとローブ [ウィキペディア]


実際のレオポルドとローブ/Leopold and Loeb [Wikipedia]

怪物は、逆説的にも──その限界としての位置にもかかわらず、また、不可能なものであると同時に禁じられたものであるにもかかわらず──理解可能性の原理となります。しかしこの理解可能性の原理は、そもそも同語反復的な原理でしかありません。というのも、自らが怪物であると断言し、自身から派生しうるあらゆる逸脱に説明を与えながらも、それ自身は理解不可能なものであるということ、これこそが、そもそも怪物というものの特性であるからです。
したがって、怪物とは、同語反復的な理解可能性であり、自分自身にしか送り返されることのない説明原理です。そしてそうした理解可能性や説明原理が、後に、異常性についてのさまざまな分析の基礎に見いだされることになるのです。




ミシェル・フーコー『異常者たち』 p.63

[Swoon]



[レオポルドとローブ関連]

Leopold and Loeb: Teen Killers (Famous Trials)

Leopold and Loeb: Teen Killers (Famous Trials)


[THRILL ME]

Thrill Me: Leopold & Loeb Story

Thrill Me: Leopold & Loeb Story




ドレフュス事件のなかの科学

ドレフュス事件のなかの科学

*1:アルフレッド・ヒッチコック監督の映画 『ロープ』(1948年)もレオポルドとローブの事件を元にしている。原作は『二つの脳を持つ男』が邦訳されているパトリック・ハミルトン(Patrick Hamilton、1904 - 1962)のドラマ作品『Rope's End』。

*2:『Swoon』でデビューしたチェスターはゲイであることを公言しており、『Adam & Steve』では監督、脚本、主演をこなしている。

Adam & Steve

Adam & Steve

*3:クリスティーン・ヴァションはトッド・ヘインズTodd Haynes監督のやはりゲイ・テーマの『ポイズン』(Poison、1991)──これも強烈な印象を与える映画だった──を始め、『GO fish』、『I Shot Andy Warhol』、『Boys Don't Cry』などをプロデュースしている。トム・ケイリンの最新作『Savage Grace』も彼女のプロデュースだ。
http://www.killerfilms.com/

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