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「ペルソナ・ノン・グラータ」ワルトハイム元国連総長死去



それほど面白くもない国際法の講義で印象に残っているのは、「ペルソナ・ノン・グラータ」(Persona non grata、好ましからざる人物)という概念や事例に当たっていたときだ。

中でも、第4代国連事務総長を務め(1972〜81年)、オーストリア大統領という国家元首の立場にありながら、アメリカをはじめとする主要国からペルソナ・ノン・グラータの発動を食らったクルト・ワルトハイム氏については「学習しがい」があった。

そのワルトハイム氏が、6月14日、心臓疾患により亡くなった。88歳だった。

<訃報>第4代国連事務総長、ワルトハイム氏死去 [Yahoo!ニュース/毎日新聞]

 1918年にウィーン近郊で生まれ、第二次世界大戦に従軍した後、オーストリア外務省に入省。外相などを歴任した後、72年にウタント事務総長の後を継ぎ国連事務総長に就任、76年に再任され81年まで務めた。その後、86〜92年にオーストリア大統領を務めた。


 国連事務総長としては、ベトナム戦争やイラン・イラク戦争など多発する国際紛争の解決に尽力。79年のイラン学生による米大使館占拠事件の解決を目指してテヘラン入りするなど活動的な事務総長として知られた。


 オーストリア大統領選中に、第二次世界大戦前にナチスの青少年組織「ヒトラー・ユーゲント」に加入、ナチス突撃隊の将校となった事実が判明した。当選後は、各国から「ペルソナ・ノン・グラータ(好ましからざる人物)」に指定され、旧ナチス関係者の入国を禁じる米国は87年に「要注意人物」に指定した。戦争犯罪容疑者として国際社会から強い批判を浴び、6年間の大統領在任中、バチカン以外の国を公式訪問できなかった。
 その後の調査で、ワルトハイム氏は旧ユーゴスラビア戦線に従軍したものの、戦争犯罪に直接関与した証拠は見つからなかった。92年の大統領選への立候補を断念、引退した。


 今年3月にオーストリア大使の経験がある潘基文(バンギムン)・国連事務総長は、ウィーンを訪問した際にワルトハイム氏と面会。潘事務総長は「個人的訪問」と説明したが、ナチス戦争犯罪を追及するユダヤ人団体から批判を浴びた。


Former UN head Kurt Waldheim dies [BBC NEWS]

The allegations arose in 1986, shortly after his nomination for the role of Austrian president.


The World Jewish Congress claimed he had been an officer attached to a German Army command which sent more than 42,000 Greek Jews from Salonika to their deaths, and was responsible for the massacre of thousands of Yugoslavs in the Kozara mountains.


Mr Waldheim's initial denial of the allegations - followed by his subsequent assertion that he was only doing his duty - caused international outrage.


"Day after day, I have been relentlessly pursued over events which happened 40 or more years ago," he said during an interview in 1988.


"My enemies kept bringing up new charges against me and promising new evidence. But this evidence never appeared."

BBCの記事にもある写真──イタリア軍司令官や親衛隊(SS)将校らと一緒に映っている1943年のユーゴスラビアでの写真のインパクトは絶大であり、その写真の「出現」(emergence)により国際世論が一気に反ワルトハイムに傾いた。1986年のことだ。


ただ、最初のセンテンスからして「Nazi organizations」と入っている『ニューヨークタイムズ』の記事によれば、オーストリア大統領選以前の段階で、各国の情報機関はワルトハイム氏の「素性」を十分に把握していたようだ。
まず1948年、国連の「War Crimes Commission」は戦犯の疑いでワルトハイム氏をリストアップしていた。ユーゴスラビア情報局も、1948年までには「ワルトハイム情報」をソ連当局に提供していた。米CIAも、ワルトハイム氏が国連事務総長に選出の段階で「過去の記録」を入手していた。
また、ワルトハイム氏本人だけではなく、夫人のエリザベス・リッチェル氏が熱心なナチ信奉者であったこともわかっていた。彼女はヒトラー・ユーゲントの婦人部「League of German Maidens」に所属し、1941年にはナチ党員のためのパーティを開いたことも記録として残っている。
しかしながら、当時の国連の委員会も、ソ連も、アメリカも、ワルトハイム氏の「素性」を、そのときには問題としなかった──ワルトハイム氏は国連事務総長に選出された。

By early 1948, the United Nations War Crimes Commission listed him as a suspected war criminal subject to trial. Yet no government pressed to bring Mr. Waldheim to account or even to reveal his history.


A former Yugoslav intelligence official, Anton Kolendic, said he informed his Soviet counterparts “in late 1947 or 1948” that his government was seeking Mr. Waldheim on suspicion of involvement in war crimes. But the Russians did nothing. And according to a bipartisan letter from Congress sent to President Bill Clinton, the Central Intelligence Agency was aware of Mr. Waldheim’s wartime record years before he stood for election as secretary general but chose to conceal it.





Kurt Waldheim, Former U.N. Chief, Is Dead at 88 [New York Times]


ワルトハイム氏のナチ関与が大きな問題となる前年の1985年には「ビットブルク事件」が起こっている。芝健介 著『武装SS』を参照すると──1985年、レーガン米大統領がドイツのライン左岸アイフェル地方のビットブルグを公式訪問しドイツ軍戦没者追悼の意をあきらかにした。が、このレーガン大統領のビットブルク公式訪問発表に対し、米国内及び世界中から非難の声が上がった。
ビットブルクにはNATO米空軍基地があるだけではない。コルメス丘顕彰墓地(Kolmeshöhe Cemetery)が存在する。

武装SS―ナチスもう一つの暴力装置 (講談社選書メチエ) この墓地に葬られた一八八七名のドイツ軍兵士の墓の内、四九名は(ナチ)武装親衛隊(ヴァッフェン・エスエス Waffen-SS)の兵士の墓であることが判明したからである。非難に対して「この若い兵士たちも強制収容所の犠牲者同様、ナチスの犠牲者である」と答えたレーガンの言葉は、彼がなお事態を重大視していなかったことをうかがわせる。

アウシュヴィッツ収容所で少年期を生きのびたノーベル賞作家エリー・ヴィーゼルは、「大統領、ここは貴方にふさわしい場所ではありません。貴方の訪問すべきなのはむしろ親衛隊(SS=Schutzstaffel)によって殺された犠牲者たちのところです」と訴えた。
こうした抗議を無視しえなくなったレーガンは、アンネ・フランクが最後を遂げたところとしても知られるベルゲン=ベルゼンの強制収容所跡へも赴く用意があると言明した。それでもビットブルク訪問はとりさげようとしなかったのである。


前年十一月末、西独首相コールが訪米の際要請していたドイツ戦没者墓地訪問を反故にすることはできなかったし、四月二十日には西独連邦議会の与党キリスト教民主同盟議員団アルフレート・ドレッガーが、ビットブルク訪問のキャンセルは、この墓地に眠っている自分の兄やその国防軍 Wehrmacht 戦友に対する侮辱にほかならないという、米議会宛書簡をあきらかにしていたからである。


そして一週間後の四月二十八日になると、『ニューヨーク・タイムズ』紙は次のように報じて波紋を投げかけた。ビットブルク墓地には有名な武装親衛隊の師団、第二SS(親衛隊)戦車師団「ダス・ライヒ Das Reich(帝国)」の兵士の墓もあり、この師団(正確には師団「総統」連隊第一大隊所属の第三中隊)は、第二次世界大戦中最も惨虐な犯罪のひとつといわれてるオラドゥール事件をひき起こしている、と報じたのである。


(中略)


同じ一九八五年四月二十八日、ミュンヒェン北西ダハウでは、米軍がこの地の強制収容所を解放してからちょうど四十年の日を記念して収容所の生き残りの人たちを中心に集会がもたれていたが、この場でフランスのシモーヌ・ヴェーユ女史(前ヨーロッパ議会議長)は、レーガン大統領の先の「犠牲者」発言がとうてい受け入れられる内容ではないと鋭く批判した。
そして四月三十日には、米下院が、三九〇対二六の圧倒的多数でレーガンのビットブルクを含む今回の旅行日程の再考を促す要請の決議を、四月二十六日の上院決議に続いておこなった。




芝健介 著『武装SS―ナチスもう一つの暴力装置』(講談社選書メチエ) p.6

にもかかわらず、コール独首相とともにレーガン大統領はビットブルク訪問を強行した。→『Reagan Joins Kohl in Brief Memorial at Bitburg Graves』(The New York Times


ウィキペディアにはレーガン大統領のビットブルク訪問に関する議論がまとまっている。
Bitburg - Reagan visit controversy [Wikipedia en]

This planned visit caused a great deal of anger, mainly on the part of Jews and former World War II soldiers. Many prominent government officials, U.S. Army officers, and celebrities, protested the planned visit.

Concentration camp survivor and author Elie Wiesel spoke out on the topic at an unrelated White House ceremony, saying, "I... implore you to do something else, to find another way, another site. That place, Mr. President, is not your place." 53 senators (including 11 Republicans), signed a letter asking the president to cancel, and 257 representatives (including 84 Republicans) signed a letter urging Chancellor Kohl to withdraw the invitation.


Former Army S/Sgt. Jim Hively mailed his World War II decorations, including a silver star and a bronze star, to Reagan in protest. The Ramones recorded the song "My Brain Is Hanging Upside Down (Bonzo Goes to Bitburg)," which alludes to Bedtime for Bonzo and Bonzo Goes to College, two movies from Reagan's film career that co-starred a chimpanzee, and Frank Zappa recorded "Reagan At Bitburg".


ところで「ワルトハイム疑惑」で問題となるのは、ワルトハイム氏個人が「本当に」戦争犯罪者なのか──確実な証拠は見つかっていない──ではない。問われているのは、オーストリアという国家の姿勢であろう。BBCの記事には次のような記述がある。

Later, Mr Waldheim said that the scandal surrounding his presidency forced Austrians to admit that they were not all passive victims of Nazi Germany.

オーストリアナチス・ドイツの最初の被害国であった──それが戦後のオーストリア共和国アイデンティティであった。しかしワルトハイム・スキャンダルによって、オーストリアが実は積極的にナチに加担していたことが議論される。しかも戦後の東西ドイツ政府が取った「徹底した」非ナチ化・反ナチ政策に比べると、オーストリアではそれは「甘かった」──少なくともそのように各国には映っていた。


Waldheim death stirs Austria's past [BBC NEWS]

The Social Democrat Chancellor, Alfred Gusenbauer, said Kurt Waldheim had served Austria in many ways, "as diplomat, as politician, as president and as United Nations secretary general".


He added that the election of Mr Waldheim as president had led to Austrians discussing and "coming to terms with their past".


He meant the wartime past and the involvement of many Austrians in Nazi war crimes. It was this past that overshadowed the last two decades of Mr Waldheim's life.


もっとも、国際的な批判にもかかわらず、オーストリア国民は選挙でワルトハイム氏を選出した。

ワルトハイム元国連総長が死去=元ナチス将校の過去も [Yahoo!ニュース/時事通信]

72年に第4代国連事務総長に就任し、2期10年務めた。だが、86年に母国の大統領選挙に立候補した際、第2次大戦中にナチス・ドイツの将校だった事実が報道された。選挙には当選したものの、米国が入国禁止措置を取るなど、外国訪問の機会や要人来訪がほとんどなく、オーストリアの外交的孤立を招いた。

外交(Diplomacy)というものや国益をシビアに考えるならば、その「正しい」選択はどうだったのだろう。