HODGE'S PARROT

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basso『クマとインテリ』



俺がこの手のジャンルの本を読むのは初めてなので、多分、「読むべきもの」が「読めてない」だろうと思う。であるならば、「読めてない」にもかかわらず、この本から「読めた」ポジティブな意義というものは、それこそ「妄想」であるに違いない。以下は「この手のジャンル」をポジティブ/肯定的に読んだ男の感想=妄想である。

クマとインテリ (EDGE COMIX)

クマとインテリ (EDGE COMIX)


まずざっと通読した。そしてわかった。俺は「関係性に萌えている」のではなく、タイプの男に萌えているのだ、と。すなわちシチュエーションの巧拙よりも、タイプの男の登場如何に重きを置いている。幸いに、このマンガには、なかなか魅力的なキャラクターが登場する。

『Manifesto/マニフェスト』と『umo che e stato inseguito/追われる男』の政治家秘書君だ。短髪とは言えないものの、長髪ではないところが、ポイント高い(俺は長髪は苦手だ)。マニエリスム/Mannierism の画家ブロンズィーノが描く自画像をコミカルした感じのハンサム・ガイで、スーツに襟を立てたハーフコートの着こなしも、欧州青年らしくグッド。『ジェラートにまつわる三つの短編』にも似たようなキャラが登場するので一緒に扱う。

『Manifesto/マニフェスト』。まず「Manifesto」という字面から、「男騒ぎ」(Man - fest)という意味を連想/イメージしてしまったことを、正直に書いておきたい。期待(妄想)するに十分なタイトルだな、と。
ただ、実際のシチュエーションとなると「ふうん?」って感じだった。なので強引にイコノロジー的解釈──マンガなので「絵」に「意味」があると思う──をして整合性を取る。すると、途端に、疑問が氷解する。なぜ秘書君がラクガキ男に魅せられたのか。

多言は無用だろう──「大のオトナである」ラクガキ男の持つ「ペン」に惹かれた。そっか、あの場所は、そういう所だったのか……。
ついでに「『処女』をいただく……」云々のセリフもなんだかな。男同士の普通の会話に「変換」すれば、せめて

「バックできる?」
「……できると思う……やったことないけど」

ぐらいにはなるだろう。ただ、セックスシーンにおいて、後背位(Doggy style)というゲイにとっては最も「自然な」──やりやすい──体位を採用しているのは好感が持てる。


ジェラートにまつわる三つの短編』は、ジェラートと男たちの連作物語。なかなか巧緻な話だと思う。例の秘書君が「あの地区は保守だからゲイだって知られるとマイナスになる」とラクガキ男を避けるもの、納得のいくシチュエーションだ。
裏表紙のジェラート屋のカラー絵は、これらのストーリーと関係するのだろう。で、この絵を見ながらあることを思い出した。
先日セフレと上野をぶらついて、とあるショップを見つけて入ったときのことだ。そこで、裸の男のカヴァー写真が目を引くアナル・プラグ(Balloning Butt Burster 5.5inch、英、独、仏、蘭、西、伊語のトリセツ/Instruction Manual付き)があったので、「どうする?」と彼に目でサインを送ったところ、苦笑しながらも「OK」だったので、購入した。どう使っているかは省くが、スコーンに乗ったジェラートというものは、俺が買った Butt Plug の形状と似ているのだ。だいたい「ジェラート」って「ジェル=ルブリカント/Lubricant」をイメージさせないだろうか。そういえば俺も、以前、「ルブリカントにまつわるエントリー」をものにしたことがある。

そもそもだ、「ジェラート談義」をしている男たちって、ゲイ・ポルノで言う「Threeways」を彷彿させる。p.139 で、ジェラートを相手の顔に擦り付けて、それを舐めるシーンがあるが、あれって……飛ばしたザーメンの後始末を「意味」しているのか? 何よりも「あそこの新フレーバー喰ったか」「俺はチョコ系しか喰わん」というセリフだって、「あいつとヤったか」「俺は外専だ」などと「妄想変換」せざるを得ない。

『追われる男』は、もっと直接的だ。トップ(タチ)の男が、ジェラート塗れの指を勃て(長い中指でだ、しかも親指と人差し指で「円」を作っている p.149の四段目の「形状」をぜひ確認しておこう)、ボトム(受け)の議員秘書君の「口腔」に押し込む。寓意というレベルではない。秘書君の表情も含め、俺がもっとも興奮したシーンだ。

『con te/コンテ』も魅力的なストーリーだった。ちょっと他愛もないところがあるが。だが、何よりも良かったのがセックスシーンだ。「今日は逆な」とトップとボトムが固定していないところが、versatile な俺にとっては何より嬉しい──俺は断然このシーンが「あること」を支持する。しかもだ。アル(40歳政治家)が、p.18 で見られるように、見事なドギー・スタイルを取っているのが、たまらない。頭の位置、腰の高さ、シーツを掴んでいる手の仕草──このプロポーションは完璧だ。
やっぱり後背位だよな。というのも正常位だと、どうしてもテクニカルな困難──ボトムが足を抱え込み背を反るか、トップが足を持って前屈みになる──があって、余程慣れたカップルでないと、インチキっぽくなる。俺も正常位はすることはするが、しかしフィニッシュは大抵ドギーだ。

そんなことを思いながら『orso e intellettuafe/クマとインテリ』を読む。表題作だけあってストーリーは素晴らしい。まるでオー・ヘンリーの掌編小説/短編小説のような完璧さで、その運命的な邂逅を演出し、さりげない感動を授けてくれる。

だが、セックスシーンには苛立たしさを感じた。実際の行為は華麗にスルーして、その前後で何があったのか知らせるに留まったほうが効果的だったのではないか。まあこのデュオはタイプではない、というのもあるのだが、問題は、二人が中途半端に服を着ていることにある。中途半端に服を着ている──とくにボトムが、だ──のは、どうも「無理やり」という印象を俺は持つ。もちろん、ジーンズや Bike サポーター(Jockstrap)、レザー、スーツと言ったセクシーなアイテムを着用するのは、アリだ。
しかし、この場面では、二人が着ているのは普段着なのだ。もし、服を脱ぐ暇もないほど熱情に駆られているとしたら、このシーンにあるように、一方が他方を冷静に観察しているのは、奇妙に思う──両者とも「ハア、ハア」してなければならない。

俺が思うに、男同士の「対等な関係」を「演出」するのは、「自分で服を脱ぐ」ことにある。「意思表示」として服を脱ぐのである。待ってました、とばかりに勢いよく「自分で」全裸になる。社会的な身分・相違・諸々を脱ぎ捨てるかのように、だ。


『Sigaro/シーガロ』、『rico e riparatore/金持ちと修理工』、『黒山さんのニオイ』は、それぞれ「短すぎ」、「ふうん」、「こんなのいねーよ」というわけでパス。


いろいろと言いたい放題書いてきたが俺は基本的にこの作品を買っている。ここにはホモフォビア的表現が皆無であるし、ゲイの描き方も──意味深な図像も含めて──堂に入っている。それに太いタッチの画線が、優美(グラツィア)な人体を象り、洒落ていて、いい雰囲気を出している。