HODGE'S PARROT

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未来の男性〜エレーヌ・シクスーのジュイサンス



パリ第8大学ヴァンセンヌ校に「女性学センター」を立ち上げた、エレーヌ・シクスー(Hélène Cixous、1937年アルジェリア生まれ)の著書『メデューサの笑い』の「新しく生まれた女」と題されたエッセーに、同性愛に関する興味深い記述があったので引用しておきたい。
シクスーはフランスのフェミニスト*1で、「エクリチュール・フェミニン」(女性的エクリチュール écriture féminine*2)の提唱者。英文学専攻で、ヘンリー・ジェイムズに関する論文「ヘンリー・ジェイムズ、投資としてのエクリチュールあるいは、利息の両義性について」も邦訳されている(筑摩世界文学大系49『ジェイムズ』所収)。また、小説、詩、戯曲など創作の分野でも実に多彩で旺盛な活動をしている。
邦訳は他に『狼の愛』(紀伊国屋書店asin:4314007044)、『ドラの肖像』(新水社、asin:4883850226)があり、エレーヌ・シクスス表記で『内部』(若林真訳)が新潮社から出ていた。

The Writing Notebooks of Helene Cixous (Athlone Contemporary European Thinkers Series)

The Writing Notebooks of Helene Cixous (Athlone Contemporary European Thinkers Series)

未来の男性



Writing Differences: Readings from the Seminar of Helene Cixous いくつかの例外はあります。過去にも絶えず例外的な男性はいました──これらの人々とは、同性愛的な要素を冷酷にも抑圧することで型にはまったマネキン人形のようになることを拒否した、不確かで詩人のような存在なのです。男でもあり、女でもあり、複合的で動的で開かれた存在。他性を構成要素として認めると、動的になるために非常に脆くなる可能性はありますが、そのような人々をいっそう豊かで、複数的で、力強くします。このような条件においてのみ創造が可能なのです。


思想家、芸術家、新しい価値の創造者、ニーチェ風の狂気の≪哲学者≫、概念・形式の破壊者・創造者、つまり人生を変える人々は、相補的であるかあるいは矛盾に満ちた独自性に心を躍らせずにはいられません。だからといって、創造するために同性愛が不可欠だと言っているわけではありません。しかし創造的主体の中に、他者や多様な人がたくさんいる、言い換えれば、自己を離脱し、省察を加え、無意識に活力を求める人々がいなければ、哲学であれ詩であれ真の創造活動を行うことはできません。


こうすることによって、砂漠が突然活気づき、今まで知らなかった自我──女たち、怪物、ジャッカル、アラブ人、同類、恐怖──が立ち現れてくるのです。
Stigmata (Routledge Classics) 自我にある「主体をはみでるもの」が、ある種の同性愛(つまり両性具有性の操作)によって結晶化されることがなければ、他の「私」、ポエジー、フィクションを創造することはできません。「新しい私」は、個性的で豊かで陽気、男性的でもあれば女性的でもあり、もっと別の存在になることもできます。そして別の存在になって、「私」は、誘惑したり、悩んだりするのです。「私」と称する様々な個性が合奏をかなでる時に、ある種の同性愛が抑圧されることがあります。これは、象徴作用や代替現象において起こります──つまりさまざまな記号・行動様式・仕草を通して現れ、とりわけエクリチュールにおいていっそう顕在化します。


こういうわけで、分裂し、砕け、再構成されるテクストの運動に、ジャン・ジュネの名において刻み込まれているものは、豊で母性的な女性なのです。男、雄、紳士、君主、王子、孤児、花、母、乳房などが奇妙に混じりあって、愛というすばらしい≪太陽エネルギー≫の周りに集まります。すると今度は太陽エネルギーが、この愛に満ちた束の間の個性的な人々を爆破し、粉々にします。そこでこれらの人々は、新しい情熱を求めるために、別の肉体として再構成されるのです。




エレーヌ・シクスー『メデューサの笑い』(松本伊瑳子、藤倉恵子、国領苑子 編訳、紀伊国屋書店) p.140-141

Hélène Cixous, Rootprints

Hélène Cixous, Rootprints

で、どうしてあなたは書かないの? 書きなさい! エクリチュールはあなたのためにあり、あなたはあなたのためにあり、あなたの体はあなたのもの、それをお取りなさい。あなたがどうして書かなかったのか私にはわかっています。(それから私が二七歳になる前に書かなかったかも)。その理由は、エクリチュールはあなたにとってあまりにも高尚であまりにも偉大なことであり、立派な人々、つまり≪立派な殿方たち≫専用のものだからというわけです。でもそれは≪馬鹿げた話≫です。


First Days of the Year (Emergent Literatures Series) もっとも、あなたはこっそりとではあれ、少しは書いてみましたね。でもそれが立派だといえないのは、人目を忍んでだったし、書いたことで自分を罰したし、最後までやりとげなかったからです。
あるいは、丁度私たちがこっそりマスターベーションをやったように、書きたい気持を抑えられずに書いてしまったとしても、それはより遠くへ行くためだったのではなく、いらだちを少々鎮めることで、〔書きたいという〕過剰なまでの思いに苦しめられることを、なんとか食い止めるためだったのです。それから、私たちは快楽を得るや否や、──自分を許してもらうために──急いで罪責感を覚えるか、あるいは、次の時まで、忘れ、埋葬してしまおうと急ぐのです。



(中略)


私は女性を書きます。女性は女性を書かねばなりません。そして男性は男性を。




エレーヌ・シクスー『メデューサの笑い』 p.11


Helene Cixous: Writing and Sexual Difference (Transitions)

Helene Cixous: Writing and Sexual Difference (Transitions)

あなたを書きなさい。あなたの体の声が聞かれねばならないのです。その時、無意識から巨大な資源がほとばしり出るでしょう。私たちのナフサは、黄金のドルや汚れたドルなしに、相場のない価値〔証券〕を世界に広め、古いゲームの規則を変えることでしょう。


書くという行為が《実現する》であろうことは、女性が自分のセクシュアリティ、および自分の<女性としての存在>に対する関係を検閲しなくなることです。またそれは、女性に自分自身の力に近付く道をも奪い返させます。そして女性に彼女の富と、彼女の快楽と、彼女の器官と、封印されてきた彼女の身体の広大な領域を返してくれることでしょう。




エレーヌ・シクスー『メデューサの笑い』 p.17

……「ペニス羨望」(Penisneid)の童話はもうおしまい。私たちが彼らのペニスを死ぬほど羨望していて、私たちは彼らのペニスに対する羨望で縁取られたあの穴なのだと彼らが信じること、そう信じることが自分自身を重視するために彼らにとって必要だということ、これは遠い昔からの彼らの問題なのです。


明らかに(私たちはそのことを、私たちの苦い経験を通じて──でも同時に、私たちにとっては楽しくも──確かめています)、彼らが勃起するのは、彼らが勃起でき、彼らがまだ性器を持っていることを、私たち(彼らが持っている小型記号表現(シニフィアン)〔=ペニス〕の母親のような愛人である私たち)が彼らに保障してあげるため、男性が男性であるのは〔ペニスという〕羽根をはやしていることによってのみだということを、私たちに知らせるためなのです。




エレーヌ・シクスー『メデューサの笑い』 p.38-39

Veils (Cultural Memory in the Present)

Veils (Cultural Memory in the Present)

The Laugh of the Medusa (1975)



The Third Body "The Laugh of the Medusa," an extremely literary essay, is well-known as an exhortation to a feminine mode of writing (the phrases "white ink" and "écriture féminine" are often cited, referring to this desired new way of writing).
It is a strident critique of "logocentrism" and "phallogocentrism," having much in common with Jacques Derrida's slightly earlier thought. The essay also calls for an acknowledgment of universal bisexuality, or polymorphous perversity, which is clearly a precursor of queer theory's later emphases; and it swiftly rejects many kinds of essentialism which were still common in Anglo-American feminism at the time. The essay also exemplifies Cixous's style of writing in that it is richly intertextual, making a wide range of literary allusions.




Hélène Cixous [Wikipedia en]

私の言語において、私の母なるドイツ語を孕んでいるのが私の父のフランス語であるのに、どうして性差に混乱を来たさずにいられるでしょうか?




エレーヌ・シクスー『メデューサの笑い』より「エクリチュールの到達」 p.281

無人島 1969-1974『中性』という作品の素材は、組み合わされた無数の要素で出来ている。例えばそれは、様々な欲望によって形成された虚構的な要素であり、また文字によって成り立った音韻的な要素であり、他にも、文彩(フィギュール)によって構成された言語的な要素、引用によって作られた批評的な要素、様々な場面によってできた活動的な要素である。これらの要素は、われわれが速度ゼロにとどまる間は、不動の、複雑な、解読するのがとても難しい「中性」のまとまりを形づくる。しかし、徐々にに速度を出して行くと、それらの要素は、相互に置き換わる数々のつながりの中に入って行き、ある話とは明確に区別される。


(中略)


要するに、読み手の様々な連結の速度に応じて、動き出すのは読書のほうなのだ。




ジル・ドゥルーズ「エレーヌ・シクスーあるいはストロボスコープのエクリチュール」(『無人島』所収、稲村真実 訳、河出書房新社

YouTube にはエレーヌ・シクスーのテクストに依拠した──彼女のテクストを読み上げる──興味深いビデオ映像があった。しかも英語だ。
i am not expecting (myself in) death

急ぎましょう。大陸は踏み込めない暗黒ではないのです。私は大陸へよく行きました。私は大陸である日、嬉しくもジャン・ジュネに出会ったことがあります。『葬儀』の中のことでした。彼は彼のジャンに導かれて大陸に来ていました。女性性を恐れぬ(とても少数の)男性がいるのです。
女性は、女性性についてほとんどまだ何も書いていません。つまり、女性のセクシュアリティ、すなわち無限の変動する複雑さについて、女性の性感帯について、女性の肉体という微細でありながら広大な領域のまばゆい燃焼について。




エレーヌ・シクスー『メデューサの笑い』 p.28-29


video book 1

シクスーが十八歳になるまで過したアルジェリアは当時フランスの植民地であり、彼女はアルジェリア人が尊厳を踏みにじられ、過酷な環境の下で暮らすことを余儀なくされている姿を目のあたりにして、心を痛めながら少女時代を過した。


Stigmata: Escaping Texts シクスーによれば、この「支配/被支配」の構図は、太陽/月、文化/自然、能動性/受動性などの二項対立、しかも一方が他方よりすぐれているとされる二項対立によって支えられた西欧の思考体系そのものに結びついていて、それは「男/女」の関係でもある。また、女性の劣等性・受動性の役割がわりふられるような「男/女」の関係は、母系制から父系制への移行が始まる時期に成立し、フロイトの男根(の有無)を中心とした、現在の人間理解に至っているのである。
このような、論理・男根に優位性をおく社会の中で、女性は完全な沈黙を強いられ、居場所としてはベッドをあてがわれてきただけであり、女性はベッドの中で出産するか、せいぜい夢を見るしかなく、言語・文化活動の場としての象徴界から排除されてきたのである。


しかし、序列化されたニ項対立的思考体系およびそれを基礎とする社会体制は、シクスーにとっては、女性を社会の周辺部へ押しやるというにとどまらぬ、生死に関わる問題であった


彼女と同じユダヤ人はドイツで大量虐殺されていた。その一方で、ユダヤ民族は父と息子の民族であり、女性には占めるべき場がなく、これは女性-シクスーにとって、生きながらの死を意味していた。


ニ項対立的思考を崩壊させ、差異が序列化されることなく認められ、誰もが生命の危険なく暮らせる社会の到来をシクスーが願ったのは、当然のことであった。エクリチュール・フェミニンにみられる、男性性に対する差異としての女性性の強調、および、抑圧されているものの解放という特徴は、彼女のこのような生まれなしには考えることはできない。




メデューサの笑い』訳者のあとがきより

Dream I Tell You (European Perspectives: a Series in Social Thought & Cultural Ctiticism)

Dream I Tell You (European Perspectives: a Series in Social Thought & Cultural Ctiticism)

書きなさい! そうすれば自らを探求している〔あなたの〕テクストは、肉と血以上のものであることがわかります。つまり、響きのよい音と芳香のする成分を持った、自らを捏ね、発酵して膨れる蜂起的なパン生地、固定されないさまざまな色が変化に富んで結合されたもの、草むらであり、わたしたちが養う海に合流する河。「ああ、あれが彼女の海だってさ」と、彼が私に言うことでしょう。離れることのできない小さな男根的母親の水で一杯になったタライ〔骨盤〕を私に差し出す彼が。


でも、ほら、私たちの海とは、魚がいようがいまいが、半透明であろうが透明であろうが、赤かろうが黒かろうが、満潮であろうが凪であろうが、内海であろうが岸がなかろうが、私たちが海をそのようにしているのであり、また、私たち自身が、海、砂、珊瑚、海草、潮、泳ぐ女性、子供、波なのです。




エレーヌ・シクスー『メデューサの笑い』 p.37

The Hélène Cixous Reader

The Hélène Cixous Reader

*1:メデューサの笑い』の訳者のあとがきによると、シクスー自身は「私は女性解放運動に携わる者であって、フェミニストではない」と主張した。また、『archiv für text und nichtext』にある「デルフィの唯物論フェミニズム」は「フランスのフェミニズム」に対する再考を促してくれる。

*2:gendered women's writing。”Woman must write her self: must write about women and bring women to writing, from which they have been driven away as violently as from their bodies.”  WikipediaÉcriture féminine”より