HODGE'S PARROT

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蝸牛は薔薇の歯の夢を見るか 〜マトモス




サンフランシスコのエレクトロニカ・ユニット『マトモス/Matmos』については以前のエントリーでも触れたが、このアンドリュー・ダニエルとマーティン・シュミットによる豪奢でフェティッシュで不埒なまでのノイズ──品良く言えば「実験音楽」もしくは「ミュジーク・コンクレート/musique concrete」でも極めつけの作品が YouTube にあった。

彼らがリスペクトする──むろん多くのゲイたちも──作家パトリシア・ハイスミスにインスピレーションを得た、≪Snails and Lasers for Patricia Highsmith≫である。ハイスミスのトレードマークともいえる動物、カタツムリに電子楽器テルミンを奏でさせるという、途方もない、しかし淫らなまでに「詩的」な企てが、なされている。


Highsmith-Matmos



湿り気を帯びたダーク・ジャズ。官能的な肉塊のダンス。ニョキニョキと屹立し、ヌラヌラと濡れた触角が交わう歓喜のイリュージョン。この「感覚」。まさに≪パトリシア・ハイスミスに捧げる蝸牛とレーザー光線≫の音楽映像である。

11の物語 (ハヤカワ・ミステリ文庫) 彼ら(=カタツムリ)は尾でたちあがるような格好をして、フルート吹きに魅せられた二匹の蛇のように、向き合ったまましきりに躰をゆらゆらさせていた。しばらくすると彼らは顔を近づけてうっとりしたように官能的なキスをはじめた。ノッパートはさらに躰をかがめていろいろな角度から観察した。するとまた別のことが起こった──二匹のかたつむりの頭の右側に耳のような突起物が現れたのだ。彼は本能的に、いま自分の目の前に展開されているのは何か性的な行為なのだと見てとった。


(中略)


その耳のような突起物の先端と先端がぴったりくっついたかと思うと、もう一つ別の小さな触手みたいな白みがかった棒が一方のかたつむりの耳から出て、もう一匹の耳へ弧を描きながら伸びていった。




パトリシア・ハイスミス「かたつむり観察者」(『11の物語』より、小倉多加志 訳、早川書房/ハヤカワ文庫) p.16-17

そういえば、マトモスの二人がオランダのゲイ・マガジンの記事で、裸で絡みあっている写真付きインタビューがあった。二人が知り合ったのはゲイ・バー。アンドリューがそこでダンサーをしていて、マーティンが声をかけたのがキッカケだという。

タツムリは雨が大好きだった。彼は水槽のひとつをのぞきこんで、エドガーがホーテンスと名づけたニ匹が互いにゆっくりと近づき、頭をもたげてキスを交わし、またするすると這っていくのをじっと見守っていた。おそらくニ匹は今日の夕方、金網を通してばらつく雨のなかで交尾を始めることだろう。ニ匹はほぼ週に一回の割合で交尾し、心から愛し合っているようにヴィクには思えた。なぜならエドガーはホーテンス以外のカタツムリには目もくれず、ホーテンスの方も他のカタツムリがキスしようとしても決して応じなかったからだ。
ヴィクの飼っている千匹あまりのカタツムリの四分の三はみな彼らの子孫だった。どちらが出産の苦しみを負うか──最低でも二十四時間はかかるのだ──についても、ニ匹は互いに深くいたわりあっている様子だった。ヴィクの目には、ホーテンスの方がエドガーよりもたくさん卵を産むように見えたので女性名を与えることにしたのである。あれこそ本当の愛というものだとヴィクは独りごちだ。たとえ彼らが単なる軟体動物に過ぎないとはいえ。





パトリシア・ハイスミス『水の墓碑銘』(柿沼瑛子 訳、河出書房新社河出文庫) p.155

Snails

かたつむりの中にハイスミスが見ているのは、みずからのヒーローの原像である。角のような触角を蠢かし、腹とひとつながりになった軟体の触手をくねらせて這い進む、あのぬらぬらとした生き物に、ヒーローの原像を見たとはどういうことは。
ここで、かたつむりの特徴を列記すれば、次のようになるだろう。

  1. まず水気の多い湿ったところに生息する。
  2. しかし、たとえ水気がなくなって、環境が悪化したとしても、決して死ぬことはない。殻の中に閉じこもり、入り口を粘液で固めて、みずからに適した環境が蘇るのをじっと待っているのである。
  3. そして、これが一番大事なところだが、かたつもりは”官能的”な存在であって、その性的な特徴は両生具有にある。つまり、繁殖の際には、一つの個体がオスになったりメスになったりする。
  4. 最後に、一般にはあまり知られていないが、ハイスミスによると、かたつむりというのはなかなか獰猛な生き物であって、人を食い殺すこともあるという。


すでにお気づきかもしれないが、ハイスミスの小説には、この特徴をすべて備えたヒーローが登場する。『太陽がいっぱい』ほか四作で活躍するトム・リプリーがそれである。




宮脇孝雄「無意識の詩人」(早川書房『ミステリマガジン』1991年11月号)

リプリー [DVD]

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[The Talented Mr. Ripley]

きれいな猟奇―映画のアウトサイド ハイスミスの小説の特徴を一言で言えば、「緊迫」ということになろう。「緊迫」は男女の間に発生することもあるが、本質的な「緊迫」はハイスミスの場合、ことごとく同性間に起こる。それも男と男の関係性の綾のなかに。
ハイスミスは基本的に独白型の作家だが、彼女のストーリーテリングが際立つのは、「自問」あるいは「閉塞的独白」を他者=もう一人の私との、つまり「男と男の間」の心理アクションとして描くからに他ならない。




滝本誠『きれいな猟奇』(平凡社) p.310

アメリカの友人 デジタルニューマスター版 [DVD]

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ヒッチコックの『見知らぬ乗客』は今では時代遅れだけれど、いい映画だと思うわ。『太陽がいっぱい』はよかったわね、最後にリップリーが捕まってしまうにしても。『アメリカの友人』もかなりうまくできていると思ったわ。ヴィム・ヴェンダース監督がデニス・ホッパー主演で撮った映画よ。あれは二回見たわ。どんな映画でも、おもしろかったら二回見るの。『アメリカの友人』はいい映画ね。結末をのぞけば、全部気に入ってるわ。特に列車のシーンがよかったわ。




パトリシア・ハイスミス・インタヴュー(宮脇裕子 訳、『ミステリマガジン』1995年6月号)


──そういえば2人とも文学教師でもあるんですよね。そういった意味で、ウィリアム・バロウズはもちろん、パトリシア・ハイスミスを選んだのは興味深いです。


ドゥルー「彼女の作品は授業でもテキストとして使ってるよ。日常をテーマにしながら、その裏に隠された恐ろしさを見せる作家だ。だから僕らも、普通の音が不快に聴こえるような音に挑戦したんだ」


MC「テルミンの上にカタツムリを這わせたりね!」


──ハイスミスといえば映画「太陽がいっぱい」の原作者として有名です。2度映画化されて、犯罪者のトム・リプリー役をアラン・ドロンマット・デイモンが演じてますが、どちらが好みですか?


ドゥルー「マットはセクシーだけどリプリー役じゃないよね。ジュード・ロウのほうが合ってると思う」


MC「だね。私は断然ドロン派だ(以下、キャストの話で延々盛り上がる……)」




「マトモスが綴る世界の偉人百科事典!?」 [Bounce.com]


ちなみにアルバムタイトルの『The Rose Has Teeth in the Mouth of a Beast』は、彼らが敬愛する哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの『哲学探究』(Philosophical Investigations)から採られたものだ。そのウェブサイトでも、ノーマン・マルコムの『ウィトゲンシュタイン―天才哲学者の思い出』や、アラン・S. ジャニク&スティーヴン トゥールミンの『ウィトゲンシュタインのウィーン』なんかもお奨めだよ!って書いているほどだ。

ウィトゲンシュタイン (平凡社ライブラリー)

ウィトゲンシュタイン (平凡社ライブラリー)

ウィトゲンシュタインはこう考えた-哲学的思考の全軌跡1912~1951 (講談社現代新書) 私的言語の話者は、自分の私的感覚をたとえば「K」と命名した後、この感覚を感じるごとに日記に自分のためだけに「K」と書き付ける。私的言語の客観性欠如批判が標的にするのは、そのたびに話者が感じている感覚が本当に彼が最初「K」と命名したものかどうかを決定する方法はあるのだろうか、という点である。もしそういう方法がなければ私的言語はどのように用いられても正しいことになり、結局、正誤の区別がないことになる。これは私的言語が規範性を持たないことであり、言語とは呼べないということを意味する。


この嫌疑に対して私的言語論者が提出できる正誤の基準は自分の直感的判断と記憶の二つしか存在しない。しかしそれは自分の判断を自分で正当化することであり、客観性を欠いた無意味なものであることは、新聞の記事を確かめるために同じ日の新聞を何部も買ったり、橋の強度実験を想像において行うことに等しい、というのがウィトゲンシュタインの批判である。


(中略)


しかし私的言語に対する批判として少し冷静に考えるなら、全く的外れなものだと言わなければならない。なぜならそれは私的言語論者に対する論点先取であり、自説の単なる反復にすぎないからである。
そもそも私的言語とは本質的に私秘的な言語であり、本質的に客観性(たとえば、他人による検証)を欠く言語である。私的言語が可能であるという主張の本質は、言語は客観的である必要はない、客観性を欠いた言語が存在しうる、ということに他ならない。




鬼界彰夫ウィトゲンシュタインはこう考えた』(講談社現代新書) p.316-317

[Matmos Official Website]

[Matmos page at Matador Records]



それと、マトモスのアルバム『The Rose Has Teeth in the Mouth of a Beast』には、もう一人、女性に捧げた楽曲がある。ヴァレリーソラナス/Valerie Solanas 。「S.C.U.M.Manifesto」を発表した人物である。「SCUM Manifesto/スカム・マニフェスト」とは「Society for Cutting Up Men Manifesto」のこと。つまり「男性抹殺宣言」である。

Scum Manifesto

Scum Manifesto


[Valerie Solanas]

[The S.C.U.M. Manifesto]


マトモスの≪Tract for Valerie Solanas≫は、SCUM Manifesto

"Life in this society being, at best, an utter bore and no aspect of society being at all relevant to women, there remains to civic-minded, responsible, thrill-seeking females only to overthrow the government, eliminate the money system, institute complete automation and destroy the male sex."

というアグレッシブな「宣言」をサンプリングし、強烈かつ印象的な音響=ノイズを企てている。そのパフォーマンスも儀式めいている。

Matmos in NYC 10/14/06-Tract for Valerie Solanas



ヴァレリーソラナスについては、アンディ・ウォーホルAndy Warhol を狙撃した過激フェミニストとして有名だろう。1968年6月3日、ソラナスは「ファクトリー」でウォーホルを撃った。翌日、彼女は逮捕される。しかしウォホール狙撃事件はアメリカを始め世界の大ニュースに成り損ねた──6月5日、大統領候補であったロバート・ケネディ元司法長官が暗殺された。
アメリカン・サイコ』の映画監督メアリー・ハロン/Mary Harronが『I Shot Andy Warholアンディ・ウォーホルを撃った女』で、ソナリスの半生を映画化した*1

I SHOT ANDY WARHOL―ポップカルト・ブック

I SHOT ANDY WARHOL―ポップカルト・ブック



[I Shot Andy Warhol(1996)]

もっともだ。マトモスの場合は、かなり意表を突くコンセプトでヴァレリーソラナスに挑んでいる。ソラナスは「不完全な性である男性を切り刻み、地球上から抹殺することを」宣言しているが、このサンフランシスコの「陽気な」エレクトロニカ・デュオは、

雌牛の陰門を解体し、故意に膣に空気を入れ、その器官を人為的に操作することで様々なヴァリエーションの放屁状のサウンドを発生させ、それを加工してビートを構築してゆく。ブー、プー、ブヒブヒ。これぞ、史上最悪にスカムなブレイクビートだ。




安藤優 『ザ・ローズ・ハズ・ティース・イン・ザ・マウス・オブ・ア・ビースト』(マタドール)の解説より


Matmos speaks At Diablo Valley College



身体なき器官 ファンタジーという概念が存在論的に曝露するスキャンダルは、それが「主観的」と「客観的」といった月並みな対項を顚覆してしまうという事実に潜んでいる。


(中略)


例えば私たちが、意識的にはユダヤ人に穏当に対処できる者が、その裡に自分自身では意識的には自覚していない根深い反ユダヤ主義的な偏見を隠しもっていると主張するとき、そうした主張は、これらの偏見が、ユダヤ人が本当にそうで有るあり方ではなく、ユダヤ人が彼にそのように見えるあり方を表現するという限りで、彼が自分にとってユダヤ人が実際にどのように見えているかを自覚していないということを意味してはいないだろうか?





スラヴォイ・ジジェク『身体なき器官』(長原豊 訳、河出書房新社) p.185

命名という言語現象に関する通俗的な見解とは、「何かに名を与えるとは特別の心的作用であり、名はこの作用を通じある不思議な仕方で対象に結びつけられている」というものである。これを神秘的命名観と呼ぼう。
我々が神秘的命名観に立つ限り、なぜ子供に命名ができるのが両親だけなのか、なぜ隣人が両親に先んじて徹夜で心的命名作用を行って彼らの子供に命名できないのか、なぜある人が台風に自分の子供の名をつけられないか、等は全くの「謎」として残るだろう。


ところがいったん我々が命名と名というものが言語を構成する重要な制度であり、その制度の下でどのような種類の対象にはどのような人間がどのような状況で命名でき、その後その名がどのように使われるかがあらかじめ決定されているということを思い出せば、これらの「謎」は全て消滅する。子供には両親が命名し、地震や台風は気象庁命名する、これが我々の「名」という制度なのである。こうした制度の外部で、ある個人が何かに命名しようと注意を集中したり、名前をくり返し唱えたりするなら、その行為は王制の存在しない国での戴冠式のごとく、無意味な儀式かパロディーでしかない。
ウィトゲンシュタインによる次の私的感覚の命名過程の記述は、私的命名がまさにこうした無意味な儀式であることを示している。

……それでも私は自分の私的感覚に直示的定義を与えることができる。──どうやって? 自分の感覚を指差せるのか? 普通の意味ではできない。しかし私は記号を口から発し、あるいは書きとめ、同時に感覚に注意を集中し、いわば内的に感覚を指示するのだ。──しかしその儀式はなんのためのものなんだ、だってそれは儀式にしか見えないよ。(『哲学探究』258)


(中略)


同様に私的命名は一見すると命名のように見えるが、「名」という制度の外部に位置しており(私的命名に関する制度を知っていたら教えてほしい)、それゆえ命名の滑稽なパロディでしかないのである。自分の感覚に対する私的命名がれっきとした命名に見えるのは、その描写が既存の命名という制度に寄生する形でなされているからにすぎない。丁度子供の買い物ごっこの記述が既存の貨幣制度に寄生しているように、私的言語とは言語ごっこであり、言語のパロディーなのである。




鬼界彰夫ウィトゲンシュタインはこう考えた』p.318-320

American Psycho - 18 Inch Figure: Patrick Bateman (Motion Activated Sound)

American Psycho - 18 Inch Figure: Patrick Bateman (Motion Activated Sound)

ファンタジーの起源的場は、小さな子供が両親が性交する様子を漏れ聞いたり目撃したりしたにもかかわらず、それに意味を与えることができないことにある。興奮に充ちた囁きや寝室での奇妙な物音などといったすべてが意味していること、それは何か? それに意味を与えることができない。子供は、その結果、これら奇妙にも張り詰めた断片に説明を与えてくれるであろう場面についてのファンタジーをつくりあげることになる。


ブルーベルベット 特別編 オリジナル無修正版 [DVD] デイヴィッド・リンチの≪ブルーベルベット≫のよく知られたシーンを思い起こして欲しい。押入に身を隠しているカイル・マクラクランイザベラ・ロッセリーニデニス・ホッパーの奇妙な性的交接を目撃する。彼が観ていることは、彼が聞いていることに説明を与えるであろう明らかに空想的な、或る一つの代補=補完である。
ホッパーがそれを通して呼吸する仮面を破るとき、これは、性的行為にともなう興奮に充ちた荒々しい呼吸に説明を与える、或る一つの想像された場面ではないだろうか? そして、ファンタジーが有する根本的なパラドクスは、主体が「オーケー、やっとみんな分った。自分の両親は性交しているのだ。私は二度とファンタジーを必要としない!」と言える瞬間には決して到達しない、という点にある。
他の何よりもこのことが、ラカンが「性的関係は存在しない il n'y a pas de rapport sexuel」と言うことで意味しようとしたことにほかならない。


あらゆる意味はある種の無意味な空想的枠組みに依拠せねばならない。私たちが「オーケー、やっと分った!」と言うとき、これが最終的に意味することは、「ようやく私は、私の空想的枠組みの内部に、それを位置づけることができた」ということなのだ。あるいは、ふたたび旧いデリダ的捻りに拠って言えば、意味の限界、意味の不可能性の概念、無意味な核芯としてのファンタジーは、同時に、その可能性の抜き差しならない条件だということである。


(中略)


二人の性的パートナーは決して孤立してはいない。というのも、二人の行動は、その欲望を維持し(窮極的には、二人が性交渉に従事しているあいだ二人を観察している、まさに或る一つの想像の眼差しでもありうる)或る一つの空想的代補に関わっていなければならないからである。




スラヴォイ・ジジェク『身体なき器官』 p.194-195

音楽と美の言語ゲーム―ヴィトゲンシュタインから音楽の一般理論へ ヴィトゲンシュタインによると、美的なるものの評価が是認というかたちで遂行されるような言語ゲームが存在する。是認は、美的なものの検証(真理化)でなく、単に説得(正当化)として行為される。この説得のためのゲームには、通常の言語は不適切である。身振りこそがそれを可能にする。
芸術を<正しい><規則にかなっている>と言う場合にも、是認の身振りが行為されていると考える。すなわち、美の言語ゲームは、純粋に言語的というよりは、言語に伴われる身体的な諸条件をも含めた表現=身振りである。ヴィトゲンシュタインは、この表現=身振りを「是認の身振り」と呼び、それを、美と芸術の言語ゲームとしてとりあげている。

≪われわれは、<これは美しい>といった美的判断について語らなくてはならないと考えるけれども、われわれが見出すのは、美的判断について語らなくてはならないとすれば、そのようなことばが全然見つからず、身ぶりのように用いられて、複雑な活動を伴うようなことばが現れてくる、ということなのである≫


≪人間の身体は、人間の魂の最良の映像である≫




矢向正人 『音楽と美の言語ゲーム』(勁草書房) p.80-81

ミニュスクル [DVD]

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ザ・シヴィル・ウォー

ザ・シヴィル・ウォー

*1:この映画で注目されるのが、『恍惚/SWOON』のトム・ケイリン/Tom Kalin がプロデュースしていることだ。『恍惚』はヒッチコックの『ロープ』と同じ題材を扱っている。

Swoon [VHS]

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