HODGE'S PARROT

はてなダイアリーから移行しました。まだ未整理中。

”ブラウン管のアダム”のピアノ




久しぶりにマーク・コスタビの『I Did It Steinwayを聴いた。あの独特の質感を持った、のっぺらぼうの人物(群)を描いた「絵画芸術」で御馴染みのアーティストによる「音楽作品」である。

I Did It Steinway

I Did It Steinway


ミニマル風、環境音楽風、あるいは「家具の音楽」のエリック・サティ風。特徴がない、という「感じ」の特徴がある。そんなスタインウェイの響きである。「ベットサイド・ストーリー」のようなノスタルジーを喚起させる。

De Chirico: The New Metaphysicsヒューマノイド(humanoid)」とも「アンドロイド(Android)」とも呼ばれるアダムは、無限に増殖している。一体何人なのかわからない。しかし、コスタビの作品の無数の登場人物も、すべてはアダムから発する一族なのである。


(中略)



顔のないアンドロイド(人造人間)のような人物──アダムに一番近い親類は20世紀イタリアの画家ジョルジオ・デ・キリコ(Giorgio de Chirico, 1888-1978)の描く人物たちであろう。ギリシアに生まれ、アテネミュンヘンの美術学校で学んだデ・キリコは、ドイツ・ロマン派絵画や象徴主義ニーチェの哲学の影響を受け、イタリアに戻ると「形而上絵画」を提唱した。ローマの古代建築を素材に、光と影を強調、原色を多用し、描かれた風景や人物の背後に、形にならない幻想と思想を暗示した。




岡部昌幸「情報化社会のヴィルトゥオーゾゥ マーク・コスタビ」(『Art Wave from New York マーク・コスタビ展』1992年 カタログより)


ところで『I Did It Steinway』のCDや『マーク・コスタビ展』のカタログを引っ張り出してきたのは、”ブラウン管の国のアダム”という異名で一世を風靡したアーティストを「21世紀のメディア=ブラウン管」YouTube で見かけたからだ。


audience pov of Mark Kostabi TV show Name that Painting

「アダム」とは何なのか。……顔もなく、名もなく、個性もない人物像──「アダム」が人間の物質的表現の単純化であることがわかるであろう。「アダム」とは、作者であるマーク・コスタビが現代の精神界の問題を表現しようとする際の「メディア」であり「メタファー」なのである。
デ・キリコの題材、「ストック・イメージ」とともに、マーク・コスタビの「ストック・イメージ」である「アダム」は19世紀までとは違う、高度な情報化社会と機械文明に登場する新しい人間像といえる。


(中略)


新しい時代には、新しいメディア、新しいメタファー、新しい人間像が必要とされている。





「情報化社会のヴィルトゥオーゾゥ マーク・コスタビ」

Kostabi: The Early Years

Kostabi: The Early Years



[Mark Kostabi]

しかし僕は、皆さんに「虚」を見せようとしているのではありません。手品師は「真実」と見せかけて、実は裏側で「仕掛け」をもっていますが、僕は素晴らしい「仕掛け」を見せながら、逆に「人生の真実」や「価値」を味わっていただこうと思うのです。


ですから見ていく中で、どれが「虚」でどれが「実」か分らなくなってしまうかもしれません。
そんな時は、このTV番組が映っているブラウン管のスウィッチをオフにして下さい。
そうすれば・・・そうすれば、すべてが消えてなくなってしまいます。




マーク・コスタビ (『マーク・コスタビ展』カタログより)

Conversations With Kostabi

Conversations With Kostabi