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ダルムシュタットの音価と強度のモードのポリティックス




現代音楽についてウェブでちょっと調べようとすると、多分ウィキペディアの『ダルムシュタット夏季現代音楽講習会』の解説に出くわすと思う。
だが、ここを見て──書いてある内容は別にして──不思議に思ったことはないだろうか。
そう。「他の言語」のところに英語版サイトへのリンクがないのだ。あるのは「Deutsch」と「Suomi」だけ……フランス語もない。
ウィキペディアには「ダルムシュタット夏季現代音楽講習会」の英語版解説は存在しないのか。そんなマイナーな音楽イベントだったのか、そこまで落ちぶれたのか。現代音楽のイメージが、ソプラノの絶叫や不安定なリズムだけ、で「語られる」ことによって、そのようなものだけであると「受けとめられ」、それによってアメリカ人に飽きられ、ひいては「インターナショナル」に無視される。そんなものなのかな、と思っていたのだが、実は英語版はあったのだ。日本語版からリンクがされていないだけで(英語版から日本語、フランス語へはリンクがある)。

During the late 1950s and early 1960s the school gained a certain infamy for a perceived lack of interest on the part of some of its zealot followers in any music not matching the uncompromisingly modern views of Pierre Boulez. This led to the use of the phrase 'Darmstadt School' as a pejorative term, implying a stale, juiceless, rule-based music.


Richard Taruskin believes that the Darmstadt New Music Summer Couses were started in order to maintain allied control over the intellectual elite in Germany at the end of World War II.


「講習会」の簡単な紹介の後に書かれてあるのが、ピエール・ブーレーズの「狂信的な」追随者(フォロワー)への強い口調の批判である。そして「ダルムシュタット・スクール」という言葉は軽蔑的に使用される、とある。

Many musicians, such as the composer Hans Werner Henze (whose music was regularly performed at Darmstadt in the 1950s) reacted against the 'Darmstadt School' ideologies, particularly the way in which (according to him) young composers were forced to either write in total dodecaphony or be ridiculed or ignored. In his autobiography, Henze recalls student composers rewriting their works on the train to Darmstadt in order to comply with Boulez's expectations (Henze 1998). One of the leading figures of the Darmstadt School itself, Franco Evangelisti, was also outspoken in his criticism of the dogmatic orthodoxy of certain zealot disciples, labelling them the 'Dodecaphonic police' (Fox 2006). Another member of the school, Konrad Boehmer, states

There never was, or has been anything like a 'serial doctrine', an iron law to which all who seek to enter that small chosen band of conspirators must of necessity submit. Nor am I, for one, familiar with one Ferienwoche schedule, let alone concert programme, which features seriality as the dominant doctrine of the early fifties. Besides, one might ask, what species of seriality is supposed to have reached such pre-eminence? It did, after all, vary from composer to composer and anyone with ears to hear with should still be able to deduce this from the compositions of that era. (Boehmer 1987, 45)

Almost from the outset, the phrase 'Darmstadt School' was used as a belittling term by commentators like Dr. Kurt Honolka (a 1962 article is quoted in Boehmer 1987, 43) to describe any music written in an uncompromising style.


ハンス・ヴェルナー・ヘンツェによる「イデオロギーと化したセリー主義」への批判が強烈である。ダルムシュタット・スクールでは12音技法(ドデカフォニー、トータル・セリエリズム)を強いられるか、馬鹿にされ無視されるかの二つに一つである……したがって若い作曲家=「生徒」は、ダルムシュタットのトレーニングにおいて、ブーレーズの気を惹くために「書き直し」をした、と。Franco Evangelisti なんかは「ドデカフォニー・ポリス(12音主義の警察)」とまで言う。
これはどういうことか……。
もっとも Konrad Boehmer による、ヘンツェが非難するような「セリー・ドクトリン(serial doctrine)」としての「鉄の法(iron law )」が、ダルムシュタットに敷かれていたわけではない、と弁護する文献が引用される。が、いずれにしても、「ダルムシュタット・スクール」は、軽蔑の意味で使われると記されている……と英語の、ということは「インターナショナルには」解されている、解されても仕方がない、ようだ。少なくともウィキペディアというインターネットの辞書内では。



[Internationales Musikinstitut Darmstadt (IMD)]

Piano Music of the Darmstadt School Vol.1

Piano Music of the Darmstadt School Vol.1

  • 発売日: 2001/01/23
  • メディア: CD
Piano Music of the Darmstadt School 2

Piano Music of the Darmstadt School 2



ところで松平頼暁の『20・5世紀の音楽』には「政治への発言」という、音楽と政治の関係を扱った章がある。中でもルイジ・ノーノが「音楽と政治のかかわり方」について五つの視点を挙げていることが注目に値する。メルクマール/Merkmal として引用しておきたい。
が、その前に、ダルムシュタットの国際夏期新音楽講座について補足を。『20・5世紀の音楽』によると、ダルムシュタットの「現代音楽講習会」は1946年、ダルムシュタット市、ヘッセン州政府、そしてアメリカ軍の資金援助によってはじまった、ということだ。とくにアメリカ軍の援助というのがポイントだろう。
すなわち、ダルムシュタットには、ナチスドイツが「新音楽/Neue Musik」を「堕落した、頽廃」音楽として弾圧したことへの「対抗措置」という側面があるのだ。そして1948年からは、西ドイツ連邦政府や隣接する諸都市・州、国内外の放送局、ドイツ工業界が援助に加わったという*1。ここにおいて、政治的なベクトルは明確であった、と言えるだろう。


それでは、ノーノによる、音楽における「政治参加」の<視点>である。

その第一は、音楽と革命には何の関係もないという考えである。革命をやりたい時には銃をとり、音楽をやりたい時には客観的な音楽美学に従えばよい、という視点であって、ブーレーズのように≪121人宣言≫への署名と、アメリカ文化の代表的組織ニューヨーク・フィルハーモニーの指揮者就任との間に矛盾を感じない立場である。


第二の視点は、革命の遂行者は、もはや社会的機能を失った労働者・農民でなく、文化である、とする。アドルノ主義によって武装されたカーゲルの立場であって、進歩的・文化的なブルジョワジーへの適応の一つのタイプであるとされる。


第三のものはテクノロジー万能の立場で、高度に発達した資本主義社会のみで可能である。周辺は切り捨てられる。シュトックハウゼンがこれに属していて、ノーノはこれを「『帝国主義』ということばで正確に定義しよう」といっている。おそらくは、第三世界からの素材音をも用いるシュトックハウゼンの≪テレムジーク≫などは、周辺の尊重ではなく、そこからの搾取と考えられるのだろう。


第四の視点は、言語がブルジョワジーに由来する以上、芸術や文化はすべてブルジョワのものであり、真の文化は革命後までは存在しない、というものである。左翼的政治グループの考えで、これらの人々は結局は今まで通りの音楽をやりつづける、という。


そして最後は、ノーノ自身の立場で、文化を意識化、闘争、挑発、討論、参加の契機と規定するものだという。伝統的な楽器や語法を批判的に用い、西欧中心の貴族的文化を否定しようとする。たとえば、彼の≪輝く工場 La fabbrica illuminata(1964)≫や≪思考における弁証法的対位法 Contrappunto dialettico alla mente(1968)≫などのテープ音楽では、工場の騒音、市場の喧騒、非西欧的発声の声などが使われている。
ノーノの芸術上の発展は、イタリア共産党ヴェネチア支部の指導者でもある彼の政治的信条と切り離すことはできない。彼が孤立した美学的振舞いを拒否する背後には、個人の自己矛盾を終点とする社会制度の拒否がある。また、機械的な音列操作に対する不信の陰には、頑迷な非弁証法的発想への不信がある。




松平頼暁20・5世紀の音楽 (1984年)』(青土社) p.211-212

Nono;Voices of Protest

Nono;Voices of Protest

  • アーティスト:LUIGI NONO
  • 発売日: 2000/05/23
  • メディア: CD





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*1:なるほど、共産主義国家ソヴィエトからすれば「現代音楽/前衛音楽」は、米軍やドイツ財界の援助を受けた「ブルジョワ芸術」と看做すかもしれない。「ジダーノフ批判」(Zhdanov Doctrine)は1946年に開始され、1948年に公にされた