HODGE'S PARROT

はてなダイアリーから移行しました。まだ未整理中。

無性の侵犯と AUFHEBUNG の転位




マクドナルドの「メガマック」を初めて食べた。ビーフパティ4枚というボリューム。なかなかの味で、満足した。僕はファーストフードに対して敵対心を持っていない。むしろ好きなほうだ。あのワッパー(Whopper)で御馴染みの『バーガーキング』の再進出も待ち遠しい。

ジャック・デリダの『エクリチュールと差異』の「限定経済学から一般経済学へ」をパラパラとめくった。ヘーゲルバタイユをめぐって、次のようなことが書いてあった。

古典的な意味あいでのさまざまな対立関係の彼岸にあって、《至高性》の言語(エクチリュール)とは、白紙ないしは無性(ニュートラル)なものであるのか。たしかにそれは、あれにも非ずこれにも非ずといった形式でしか何ひとつ陳述できないものであるから、そのように考えることもできそうである。ここにも、バタイユブランショの思想的近親性がありはしないか。さらにバタイユ自身が、無性の認識を主唱しているではないか。「かかる認識は、解放された認識とでも称すべきもの(わたしとしてはむしろ、無性の認識と呼びたい)で、おのれの起源である隷属性から切り離された(解放された)一機能の使用を指して言うものである。この機能は……既知を未知へと関連づけるのだ」。


ただし、ここで注意深く考えておかなければならないことがある。つまり、無性なのは至高作用ではなくて言説的認識だということである。無性(neutre)とは、本質的に否定的(ne-uter)なものであって、侵犯の否定的局面なのである。《至高性》は、おのが言説内で古典的論理のあらゆる矛盾ないし対立を無性化してはいるけれど、それ自体としては無性ではないのだ。


無性化は、認識内と言語(エクリチュール)の統治法内で生起するものではあるが、しかも、至高かつ侵犯的な肯定へと関係づけられているのである。至高作用は、古典的対立を言説内で無性化するにとどまらず、言説と無性化の労働までを用いて体系を構成している法則、あるいは禁忌を、《体験》(高次の意味での)中で侵犯するのだ。


(中略)


言説の破壊もまた、単純な抹消をもってする無性化なのではない。そうではなくて、語をますます増加せしめ、語同士を互いに駆りたて合わせ、さらにはこれを、外=意味的遊戯の至高な肯定を唯一の規則としている無目的で無底の置換作用へと、呑み込んでしまうものなのだ。それは、留保や撤回ではなく、古典的言説の痕跡を抹消していく白紙のことばの無限のつぶやきでもなく、死の陽気な肯定の内に語そのものを焼きつくし、消滅せしめ、浪費するような、一種の記号のポトラッチを言うのである。つまりは、供犠であり挑戦なのだ。そこで、たとえば、

先に私は、至高作用を指して、《内的体験》あるいは《可能事の極限》と呼んでおいた。ここではそれを《瞑想》と呼ぶことにする。用語を変更したのは、そもそも語など使用すること自体に嫌気が差してきたからである(なかでも《至高作用》が一番いけない。《滑稽作用》とでも言っておけば、あるいは誤解を招くことが少ないかもしれない)。今のところ《瞑想》と言っておきたいと思うのだが、これはこれでまた、ひどく恭しい外観をしてはいる。(『瞑想の方法』)


一体何が起こったのか、結局、何ひとつ語られはしなかったのだ。われわれはいかなる語にも足を停めなかった。鎖をかけられたものは何ひとつない。いかなる概念も要求は満たしはしない。すべての概念が互いに限定し合い、同時に破壊あるいは無性化し合っている。

しかし、遊戯(賭)の規則、あるいはむしろ規則としての遊戯は、肯定された。言説侵犯の必然性と、嫌悪の(いかなる語にしろ、そもそも語などを、それがもつ意味の心安らぐ同一性において使用することへの)否定性とが、肯定されたのである。


しかし、このような言説の侵犯(言説とは意味の価値あるいはその規範を、言いかえれば適法性一般のエレメントを確立してはじめて自身も確立するものであるから、当然、法則性一般の侵犯)は、およそ侵犯たるものはすべてそうなのだが、超え出ようとする対象を何らかの手段で保持し確認しなければならない。これこそが、自身を《侵犯》だと確認し、遂には「苛烈な侵害の中で与えられる」あの《聖なるもの》へと到達する唯一の方法なのである。




デリダエクリチュールと差異 下  叢書・ウニベルシタス』(梶谷温子 他訳、 法政大学出版局