HODGE'S PARROT

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正義は行われよ、たとえ世界は滅びようとも




ブラッサイの『プルースト/写真』って、以前、感想を書いたよな……と思って読み返してみたら、単眼的でちょっと恥ずかしく思ったので、別の作品の感想を転載──といっても、これが複眼的なレンズで書いたものとは言えないが……。


ヴァルター・ベンヤミン『写真小史/複製技術時代の芸術作品』ちくま学芸文庫ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味 (ちくま学芸文庫)』より、浅井健二郎編訳・久保哲司訳) 。


写真(と映画)について書かれたベンヤミンのエッセイ。ここのところ写真に関する本を集中的に読んでいるが、その中でもこの二つのエッセイはさすがはベンヤミンという感じで、何度読んでも刺激的、そして読むたびに何か新しい発見がある。ブラボー! としか言いようがない完璧な文章だ。
誰かが「ブロッホは凡人、アドルノは秀才、ベンヤミンは天才」と言っていたが(誰だっけ?)、こういった作品を読むとそれが如実に実感できる。

まあそんな風にベンヤミンを褒めちぎっても、そしてまた「読むたびに何か新しい発見がある」なんていうのはそれこそ「常套句」みたいで信頼性が薄い一方通行的なセンテンスに思われるかもしれないが、実際僕は今すごく興奮している。それはついさっき『複製技術時代の芸術作品』を読み終えたのだが、以前には気にもとめなかったフレーズが、まるでアレゴリーのように意味を帯び、それが頭の中を土星の輪のごとく駆け巡っているからだ。


『複製技術時代の芸術作品』の最後、有名な「政治の耽美主義は戦争に極まる」のところで、ベンヤミンは「芸術は行われよ、たとえ世界は滅びようとも」というラテン語の成句をもじった表現をしているのだが、注によるとこれは「正義は行われよ、たとえ世界は滅びようとも」から来ているのだそうだ。
この「正義は行われよ、たとえ世界は滅びようとも」って、もしかしてシオドア・スタージョンの短編で同性愛を扱った『たとえ世界を失っても』と同じ成句なのではないか? そんなことがパッと星座を認識したときのように閃いて、ベンヤミンを読んで<いま-ここ>で興奮しているという次第。


まあそれはそれとして、いちおうこの『複製技術時代の芸術作品』についてちょっとメモをしておくと、ここでベンヤミンは「アウラ」ということについて述べている。アウラとはベンヤミンによると「空間と時間から織りなされた不可思議な織物」で「どれほど近くにであれ、ある遠さが一回的に現われているもの」になる。非アウラ的なものが複製技術による芸術(写真、映画)で、それは儀式的(礼拝価値)から解放され、代わりに展示価値が増大していくことになる。それは芸術の大衆化に繋がり、ファシズムはそのプロレタリア大衆=集団主義による徹底した非人間な「大衆」を組織し、その所有関係を温存させたまま大衆に発言させ、それが政治の耽美主義に行きつく……こんなところだろうか。


『写真小史』で印象に残ったのは、拷問部屋にも等しい写真スタジオのセットの中で悲しげな眼をした幼いカフカの写真について語るくだり。ここはベンヤミンならではの鋭く冷徹な視線でその写真の持つ意味を分析している。
そして究極なのはラスト、アジェの写真が「犯行現場」のそれと比せられたことから、

だが、私たちの住む都市のどの一角も犯行現場なのではないのか。都市のなかの通行人はみな犯人なのではないか。写真家──鳥占い師や腸ト師の末裔──は、彼の撮った写真の上に罪を発見し、誰に罪があるかを示す使命をもつのではないか。

と導いているところ。いやはや、まったく痺れるくらいスリリングな論理展開だ。そしてそこから、

「文字に不案内な者ではなく、写真に不案内な者が、未来の文盲ということになろう」と言われる。しかし、自分の撮った写真から何も読みとることができない写真家も、同じく文盲と見なされるべきではないか。標題は写真の一部分、そのもっとも本質的な部分になるのではないか。

と結論づけている。写真の技術論から文化論、社会論へと展開(越境)していく思考の流れ(運動)はさすがだ。