HODGE'S PARROT

はてなダイアリーから移行しました。まだ未整理中。

メンデルスゾーン『最初のワルプルギスの夜』




毎回、よくぞ発掘/復刻してくれました! と感謝感激のタワーレコードの「RCA PRECIOUS Selection 1000」。第4期 Vol.1 では、ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団の演奏によるメンデルスゾーンカンタータ『最初のワルプルギスの夜』Op.60(+『フィンガルの洞窟(ヘブリデス)』『真夏の夜の夢』)がリリースされた。『エリア』Op.70 (英語版)に続き、(メンデルスゾーンの作品として)レアで(オーマンディの録音として)貴重な音源の世界初CD化という快挙だ。


ワルプルギスの夜」というと、誰しもベルリオーズの『幻想交響曲』の第5楽章「ワルプルギスの夜の夢」(サバトの夜の夢)を思い浮かべるかもしれない。
↓はシャルル・ミュンシュ指揮ボストン交響楽団の演奏によるベルリオーズ幻想交響曲』の、鮮烈で強烈なインパクトのある「悪魔的な」──なんとなく『デビルマン』の「妖獣ガンデェ 眼が歩く」を思い出す──ジャケット・カバーだ。

ベルリオーズ:幻想交響曲

ベルリオーズ:幻想交響曲


あのアクの強いベルリオーズに対して、「妖精のような」音楽を書くメンデルスゾーンの作品はどのようなものだろう……と聴き始めたのだが、これが最初からテンションが高く、ソロ&合唱とも迫力があり、オケはシンフォニックで、とても聴き応えがあった。ときに素晴らしく幻想的な雰囲気を醸し出すところなんか最高だ。フェリックス・メンデルスゾーンにはハズレがない、とつくづく思った。

フェリックスの側としては、ベルリオーズが彼の作品についてどんな意見を持っているか気にしていた。彼は『ヴァルプルギスの夜』と『ヘブリデス』序曲をピアノ弾いて聴かせ、ベルリオーズはフェリックスの音楽とピアノの両方に感嘆した。多くの人たち同様、ベルリオーズは鍵盤の上でオーケストラの効果をつくり上げるメンデルスゾーンの能力に驚嘆した。けれども、ベルリオーズは有名な言葉として、メンデルスゾーンについて「いささか過去の音楽家を好み過ぎる」といっている。──それはメンデルスゾーンが古典的な形式やバッハのような作曲家を愛好していることをほのめかしたものだが──ベルリオーズは常に愛情と尊敬の念をメンデルスゾーンに対して持ち続けた。


(中略)


母親に宛てた手紙の中で、メンデルスゾーンベルリオーズの音楽について個人的な見解を述べている。それによると、彼の音楽は「凶暴」そのもので、楽器編成も「混乱して、すっきりしていない」うえに、彼の代表的な作品全体の印象は「退屈」で「ばかばかしい」というのである。



ハーバート・クッファーバーグ『三代のユダヤ人 メンデルスゾーン家の人々』(横溝亮一 訳、東京創元社) p.208-209


Hahaha……結構言うね、メンデルスゾーンも。もっともベルリオーズメンデルスゾーンは友情を維持し、二人は芸術や宗教について熱心に語り合ったそうだ。

のちにベルリオーズはこう回想している。
メンデルスゾーンは彼のルター派の信仰を心から信じており、私は時折、聖書を笑いとばして、彼に強いショックを与えるのであった」




ハーバート・クッファーバーグ『メンデルスゾーン家の人々―三代のユダヤ人』 p.209


CDの解説によると(日本語の解説がつくのが、このシリーズの大きな魅力でもある)、『最初のワルプルギスの夜』の歌詞はゲーテのバラードに拠っており、ワルプルギスとは8世紀に実在したローマ・カトリックの聖人、尼僧ワルプルギスのことだという。彼女は病気の守護神として讃えられているのだが、しかし「ワルプルギスの夜」という「祝日の前夜」となると、その意味するものは大分ズレる。

その詩についてゲーテは次のように説明している。「ドイツに古くからある異教徒たちは、キリスト教が民衆に強制されたために追われることになり、古老や長老の下、一族は人里離れたハルツ山に引きこもった。そこで密やかにこれまで通り宗教儀式を行いながら暮らしていたのである。そして、他の侵入者や武装集団から守るために、悪魔の姿に変装して、迷信深い敵を脅すことで身を守っていた。こうして彼らは、悪魔の仮面に守られて、神への奉仕を行っていたのだ。」




メンデルスゾーン『最初のワルプルギスの夜』のブックレットより


このゲーテのバラードに登場する「異教」とは、古代ケルトに由来するドルイド教(Druid)のことである。「プロテスタントに改宗した」メンデルスゾーンが採用した歌詞には、例えば、以下のようなことが書かれてあり、眼を──そして耳を──惹く。

この愚かなキリスト教の僧たちを、
雄々しく策略を用いて打ち負かそう!
彼らが作り上げた悪魔で
われらは彼らをおびやかそう。
来たれ!来たれ!
来たれ、熊手と刺又、そして火と拍子木を持って
夜の闇に狭い谷間を通って騒ぎたてよう。




ドルイド教徒の一人の見張り(バス・バリトン)」(ブックレイトより、門馬直美 訳)


[ドルイド教について]

ドルイドの宗教上の特徴の一つは、森や木々との関係である。ドルイドはパナケア(ヤドリギ)の巻きついたオーク(楢)の木の下で儀式を執り行っていた。ドルイドヤドリギに特別な力があると信じていたようだ。これについてはプリニウスが『博物誌』に記している。また、近代になって発掘された古代ガリアの奉納物にはオークで作られた物が多い。また、四葉のクローバー等といった希少な植物を崇拝していたという事も伝わっている。なお、神木の概念自体はケルト人に留まらず世界中に存在する。


5世紀頃のアイルランドドルイドは、「我がドルイドはキリストなり」と宣言し、キリスト教へ改宗したという。そのためか、現代のアイルランドでは普通のローマ・カトリックとは一線を画したカトリックが存在していると言われる。

ドゥルイデスの教義は、まずブリタンニアで発見され、そしてそこからガリアに移入されたと考えられている。それで今日でも、この教義をいっそう深く研究しようと志す者は、大抵ブリタンニアに渡って、修行を積むのである。


ドゥルイデスは、一般に戦争と縁のない生涯を送ることになっている。そして税も他の人のように納めていない。兵役義務の免除など、いっさいの義務から解放されている。こうしたすばらしい特権に魅せられ、多くの若者が、自発的にあるいは両親や親戚の人たちに送られて、学校にやってくる。そこで、修行者らは、膨大な教義の詩句を暗誦するといわれている。それで中には、二十年間も学校に居残るものがいる。


(中略)


ドゥルイデスがまず第一に、人を説得したいと思っていることは、魂はけっして滅びず、死後一つの肉体から他の肉体へ移るという教えである。この信念こそ、ガリア人をして死の恐怖を忘れさせ、武勇へと駆りたてる最大の要因と考えている。これ以外にも、たとえば天体やその運行について、世界やその広さにつき、万物の本性につき、不滅の神々の威力や権能について、彼らは考察し若い修行者に教えこむのである。




カエサルガリア戦記』(国原吉之助 訳、講談社学術文庫) p.216-217

ガリア戦記 (講談社学術文庫)

ガリア戦記 (講談社学術文庫)



そういえば、ドイツ文学者の喜多尾道冬氏は『レコード芸術』の連載「喜多尾ゼミナール」で、メンデルスゾーンと妖精、そして作曲者のユダヤ性について次のような興味深い指摘をしていた。

メンデルスゾーンというのは、「妖精」を描くのが実にうまい作曲家だよね。「妖精」というのはキリスト教の侵略以前、ケルトドルイドの自然崇拝の世界に存在した女神たちだった。それがキリスト教に征服され、矮小化されて「妖精」となった。そこで、ヨーロッパにおける「異教」である「ユダヤ教」と結びつくものがあるのでは?




「喜多尾ゼミナール」第34回(『レコード芸術』2006年10月号より)


そしてユダヤ人の詩人ハインリヒ・ハイネは『流刑の神々』の冒頭、次のように書いている。

ここで申しのべようとする考えを、わたしはごく初期の著作のなかですでにとりあげたことがある。つまり、わたしはここでふたたび、キリスト教が世界を支配したときにギリシア・ローマの神々が強いられた魔神(デーモン)への変身のことをのべてみようと思っているのである。


(中略)


教会は古代の神々を、哲学者たちのように、けっして妄想だとか欺瞞と錯覚のおとし子だとは説明せず、キリストの勝利によってその権力の絶頂からたたきおとされ、今や地上の古い神殿の廃墟や魔法の森の暗闇の中で暮らしをたてている悪霊たちであると考えている。そしてその悪霊たちはか弱いキリスト教徒が廃墟や森へ迷いこんでくると、その誘惑的な魔法、すなわち肉欲や美しいもの、特にダンスと歌でもって背教へと誘いこむというのである。
このテーマ、すなわち、古代の自然崇拝がサタンに奉仕するものとされ、異教の祭司の勤行が魔法につくりかえられたこと、神々の悪魔化というテーマに関しては、わたしはすでに『サロン』の第二部と第三部において腹蔵なく意見をのべておいた。




ハイネ『流刑の神々・精霊物語 (岩波文庫 赤 418-6)』(小沢俊夫 訳、岩波文庫) p.125-126


さらに、アイルランドの詩人でケルトの民間伝承復興に多大な功績を残したウィリアム・バトラー・イエイツの、妖精についての言。

妖精とは、いったいどういうものであろうか? 「救われるほど良くもないが、救われぬほど悪くもない堕天使」と農民たちは言い、「地上の神々」と『アーマーの書』にはある。「異教の国アイルランドの神々トゥアハ・デ・ダナーン(Tuatha De Danan 女神ダーナの巨人神族)のことで、もはや崇拝もされず、供物も捧げられなくなると、人々の頭のなかで次第に小さくなっていって、今では身の丈がわずか、二、三十センチほどになってしまったのだ」とアイルランドの好古家たちは言っている。


(中略)


妖精たちを小さいものとばかり思ってはいけない。何をしても気まぐれであるから、背丈すらも気分次第、自分の好きなように背丈や姿を変えるらしい。妖精の主な仕事といえば、ご馳走を食べたり、戦をしたり、世にも美しい音楽を奏でることである。




W.B.イエイツ『ケルト妖精物語』(井村君江 編訳、ちくま文庫) p.25-27

ケルト妖精物語 (ちくま文庫)

ケルト妖精物語 (ちくま文庫)




[関連エントリー]