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メッテルニヒ「われわれは何よりも平和工作の成功を確保することを望んでいた」




オーストリア(オーストリー)とオーストラリアが混同されている、という記事に愕然として──怒りすら覚えて、それでは、とシューベルトを聴きながら『メッテルニヒの回想録』(恒文社)を読み返した。
クレメンス・ヴェンツェル・ロタール・ネーポムク・フォン・メッテルニヒ(Klemens Wenzel Lothar Nepomuk von Metternich、1773-1859)に対して僕は常に畏敬の念を抱いてきた。その『回想録』は、プロシアカール・フィーリプ・ゴットリープ・フォン・クラウゼヴィッツ(Carl Phillip Gottlieb von Clausewitz)の『戦争論』と並び、僕の座右の書だ。

メッテルニヒオーストリアという──内部構成という点からすると外国人の目には「未知の国(テラ・インコグニタ)」見えた──帝国を以下のように述べる。

この帝国、と言ってもオーストリア帝国という名になったのは1806年のからのことでしかないが、これはその成立においてもその後の発展においても、他のどの帝国とも似ていない。ハプスブルク家の下で、この国は東部において、それまでは民族性ならびに歴史によって切り離されていた多数の地方を加えて大きくなった。ごく少数の例外を除けば、これらの地方は征服によってではなく、相続、結婚によって、また自ら進んで自治権を放棄した結果、併合されたのであり、こうして自らの権利や個々の特権を保有しつつも、何世代にもわたって広大な領地に君臨する王朝に寄与してきたのだ。


失効した場合を除いて、一般的にはこうした権利や保留条項を帝国の歴代君主は尊重してきたが、それこそ、党派心や外国の政治的陰謀が攻撃はできてもくつがえすことはできない真実なのだ。




p.249-250

しかもだ。実のところ、この「寄せ集め」、この政治体には、名がなかった──日常語に欠落があったのだ。

統治している家系に与えられる「ハプスブルク家」とか「オーストリア王家」とかいった名称によってその欠落が明らかにされた。諸国家の歴史にこのような例は二つとない。日常生活において、ましては外交関係において、その国自身の名の代わりに統治している王家の名が用いられたところなどどこにもないのだ。1806年、ドイツ皇帝の尊厳がなくなるのと時を同じうして、はじめて皇帝フランツは自らの帝国に「オーストリア帝国」という名をおつけになった。




p.250


そして「自由を標榜」したフランスのナポレオンによって欧州が「蹂躙」された後、メッテルニヒは「平和工作」(別の視点では「保守・反動」とも)を画策する。その「平和工作」が所謂ウィーン会議ウィーン体制である。

元のオーストリアネーデルランドと、かつては前部オーストリアという名で知られていたドイツ領土(ブライスガウ地方)とをとりもどし、これらの地方をオーストリアに併合したとしても、私がいま言った時期なら何ら障害は生じなかっただろう。
さらに言えば、ごく自然な政治的理由を行動の指針としていた同盟列強は、ベルギーが再びオーストリアに併合されることを望んでいたのだ。わが国はこうした領土拡大を拒否した。とくに帝国に関する考慮があったためだけではなく、われわれは何よりも平和工作の成功を確保することを望んでいたからである。


われわれは、わが帝国がフランスとじかに接触することを避け、そうすることで、まさしく隣合っているという理由から三世紀以上もの時期この隣国間でつづいていた争いを終結させたかったのだ。というのも、フランスはあらゆる種類の新しいことがもっともはいり込みうる国であることはたしかだが、古い刻印がもっとも長く持続する国でもあるからだ。それだからこそ、正統な王家の復興後オーストリアとフランスの立場に生じた変化は、国民の目にも両政府の目にさえも、いわば気づかれずにすみ、まるで両国家の地理上の位置がいまだにフランソワ一世やルイ十四世の時代と変わりないかのように、フランスとオーストリア王家との間の争いに多くの人たちが相変わらず加わっていたのだ……



p.252

このオーストリアの宰相は自身がもたらした「ウィーン会議」の成果、すなわち「平和の保証」について誇らしげに述べる。

<会議>は各帝国ならびに諸国家の領地をしっかりした基盤の上に安定させた。最後までけっして崩れなかった相互理解のおかげで、フランスをかつての境界内に戻した四強国は、いまや一致して、以前の権利を回復したフランス国王に敬服している。ともに目指した政治的目的がひとたび達成されるや、存在理由を失った四カ国同盟に代わって、精神的な五頭政治が形成された。のちのアーヘン会議が原則としてその権力を限定し、運営法を定めると同時に、その権限を決定することになった。


こうして、ヨーロッパは可能な範囲内で、堅固で恒久的な平和を保証されたのだ。




p.252

メッテルニヒの回想録

メッテルニヒの回想録