『現代思想』のジュディス・バトラー特集の「討議」で、レオ・ベルサーニによるバトラーへの批判が取り上げられていた。
竹村 たしかベルサーニだったと思いますが、バトラーについて、セクシュアリティに潜むおぞましくも恍惚的なものを語らない「いい子ちゃん」だというような批判をしたと記憶していますが──しかしこれは、極端な言い方で、バトラーの議論の根底には、深い絶望や根強いルサンチマンがあると感じていますが──他方で、「攪乱」は諸刃の刃で、非常に危険なものです。
危険性や暴力性を捨象したら、「攪乱」ではなくなる。たとえば従軍慰安婦の証言でも、聴く人を非常に辛くさせる、ときには、もう聴きたくないとすら思えるような地点まで、連れていってしまうようなものだと思います。
p.50
ここから先日も書いたように竹村氏は「2000年になってからは、攪乱が暴走すること」について考えるべきだ、と主張する。
現代思想2006年10月臨時増刊号 総特集=ジュディス・バトラー 触発する思想
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そう。ベルサーニはセクシュアリティにおける「暴力性」を直視している。ドラッグ・クイーンのパフォーマンスと戯れるのではなしに、生々しく──だからこそ、キャサリン・マッキノンのセクシュアリティ観を支持しているのだろう。
アッシリアの彫刻家たちは、さまざまな形式的戦略の戯れによって、主題をはぐらかす類希なる性向を披露している。彼らは、物語的な暴力から多様な形式を産出する多様な接触の「暴力」へと、私たちが少しずつ移行するように誘っている。その結果、歴史=物語の暴力は特権化された破壊的様式の地位をけっして享受することはない。
戦争と狩の残虐性は、芸術的な表象によって幾分か凡庸なものとされる、と言ってもよい。アッシリア史の壮大な光景は、これら古代芸術家の明示的意図にもかかわらず、彼ら芸術家の静態的なイメージの安定的読解から私たちを遠ざける効果をもっているのである。アッシリアの彫刻家は、アッシリアの歴史の栄光を称賛しながらも、しかし同時に、そうした歴史からある種の距離をとっているのだ。こうした芸術では、歴史的暴力の圧倒的光景が、私たちが歴史それ自体における暴力に熱狂することを矯めすものとして機能している。すでに論じたように、セクシュアリティがマゾヒズムに根ざしているとすれば、私たちは、ほとんど初めから、暴力と存在論的に関与していることになるだろう。
したがって私たちの選択は暴力と非暴力との狭間などにはない。むしろ私たちの選択は、つねに流動的な欲望の心的置き換えと挿話的な暴力への破壊的な固定との狭間に存在している。
わたしたちがゲイから脱する手段は限りなくあると思える。最近わたしたちはゲイであるよりクイアーであろうと決意した。ゲイの歴史はホモセクシュアルのアイデンティティ定義の努力にあまりにも縛りつけられている。
ところがクイアーには二重の利点がある。すなわち、この語がもつホモセクシュアルの指示対象を除去したとしても、ストレートたちがホモセクシュアルを軽蔑的に表す語を誇りをもって反復する。抑圧された集団がクイアーのレッテルを受け取るということは自分は男性優位の白人、資本主義、ヘテロセクシストたちの文化と積極的に戦っていることを確認することである。マイケル・ウォーナーの「健常者の制度に対する抵抗」においてはゲイはひとつの局面になる。この寛容な定義では抵抗する者は全員同じクイアーの袋に入る。この普遍化の方策をわたしは評価するが、そこには抵抗のセックス面の示差性が明示できていない。
僕は「利点」よりも「利害」がそこにあるように思えてならない。なぜ、左翼的な「いい子ちゃん」ぶるのか。なぜ、「積極的に戦っている」ことを見せ付けるのか──「抵抗の素振り」こそセクシュアリティの持つ「暴力性」を隠微しているのではないか。なぜ、「同じ袋に全員」入らなければならないのか──木の葉を森に隠すためか? 死体を隠すために戦争を起こすのか?。それはいったい、本当は、誰を利するのか。曖昧な「自己申告」の利害に浴するのは、いったい誰か。「いい子ちゃん」の「善意」を利用しているのは、誰か。本当に、その人物は「いい子ちゃん」なのか。
「人種差別っていうのは麻薬みたいなもんだよ、バーク──本来、必要なものをわからなくしている──みんな、馬鹿だってわかっていながら、とりあえずそれにすがるんだ」
おれは交通整理のおまわりみたいに手をあげて制した。
「ちょっと待った、兄弟。あんたの話はどんどん先に進むんで、ついていけないよ。そんな話と子どもの強姦とどういう関係があるんだ?」
「同じことだよ。政治というのは、大衆の面前に示される現実をコントロールしてるんだ。いいかい、フロイトによれば、子どもと大人のセックスは幻想でしかない──子どもの頭の中にある何かなんだ──両親に対して抱く性的な感情と同じように想像の産物なんだ。そういう感情が実際に存在してるってことは知ってのとおりだ──たとえば、オイディプス・コンプレックスみたいにね。ただ、子どもがみんな、そういう感情を抱いているってことで、近親相姦の事例までが幻想として否定されるわけじゃない。そういうことがあるのだと確認するまでは長い時間がかかったがね。政治的に見れば、近親相姦なんて幻想だと思われてるほうが都合がいいわけだから。医者も被害者になった子どもに治療を施したが、その”治療”はいんちきだった──子どもたちに嘘を信じ込ませ、自分はおかしいのではないかと思わせてしまった」
「それが子どもたちを……」
「狂わせてしまう。そうなんだ、結果的にそうなってしまった。狂気を演じていた子どもたちは、もともと狂っていたという事実の証拠として、それをあげられてしまうんだ。わかるかね?」
「だが、なぜだ? 自分の子どもをファックしたやつを擁護しようなんて連中がいるのか?」
アンドリュー・ヴァクス『赤毛のストレーガ』
われわれに実際にわかっていることを話そうか──そんなに時間もかからないだろうから。子どもたち──よその子どもや自分の子ども──とセックスしている大人をわれわれも知っている。そして、それが力と関係しているらしいってこともわかっている──大人が子どもに対して持っている力とね。実際、子どものセックスは、われわれがふつうに理解しているようなセックスじゃないんだよ、バーク。
(中略)
小児愛者というのは、インテリほど自分の行為を巧みに正当化するものだが、ほんとのところは実に簡単なんだ──自分のやっていることは間違っていると承知の上でやっているんだ」
アンドリュー・ヴァクス『赤毛のストレーガ』
「そんなふうに子どもをだまして何の得があるっていうんだ?」と、おれはきいた。
「子どもには選挙権がないからね」と、パブロは答えた。
アンドリュー・ヴァクス『赤毛のストレーガ』
ゲイを迫害する方法はいろいろとある。同性愛者への暴行が顕著な例だが、それで相手を根こそぎにはできない。ホモセクシュアルへの肉体的攻撃は社会一般に黙認されているばかりではなく、ひそかに奨励されてもいる。以上は周知の事実だ。
知られていないのは、ゲイへの憎悪の多くの部分が、小児性愛者はたがのはずれたホモセクシュアルだという、完全にあやまった確信によって油を注がれている事実だ。
ジャーナリズムがそのペテンの共犯者だった。この声明文が掲載されている新聞がかっこうの例になる。”同性愛的児童虐待で教師逮捕”という見出しを覚えているか? 記事内容は、幼稚園の先生と五歳の男の子だった。読者は胸に手を置いて考えてみるがいい──これはジャーナリズム業界にも向けた言葉だ──もし犠牲者が幼い女の子だったら、見出しは”異性愛的児童虐待!”と叫び立てただろうか? 答えは明らかだ。その大部分は無知に起因するが、一部は意図的なものなのだ。
小児性愛者たちは慎重に”ゲイ”をよそおってきていて、大人同士の合意による同性愛への社会の容認を、子供のレイプにまで延長しようとしているのだ。いったい何人の小児性愛者が、”ゲイの活動家”を隠れ蓑にして、”まずユダヤ人がホモセクシュアルになった”という昔ながらの流言を利用してゲイを怯えさせ、”共同戦線”といったナンセンスに引き込んできたことか?
ゲイは幼児を犯すやつらを憎んでいる。その点は異性愛者と何ら変わりはない。
アンドリュー・ヴァクス『クリスタル』
「あんた、ほんとに彼らを憎んでいるのね、違う?」上体がぐっと寄せられたので、その息が感じとれた。
「誰を?」
「子供の敵」
「憎まないやつがいるか?」と答え、その言葉を無視した。
アンドリュー・ヴァクス『クリスタル』
寛容はリベラリズムが提案する解決方法である。この寛容の核心に、もっとも本質的な性的恐喝がある。だれのセクシュアリティも批判しないために、女性たちが、厳密に言えば男性に利用され虐待された女性たち、セックスの名のもとで犠牲にされた女性たちが、他の人びとから分離され、放置されることを、すべての人が望んでいる。
(中略)
寛容という名のこのような擁護のペテンでは、すべての人のセックスはレトリック上では表現の自由として守られる。そこには、すべての人を性交によって潜在的な共謀者にしようとする政治の巧みさがある。
だが、政治的にわずかでも現実主義者である人ならだれでも知っているように、そんな約束は幻想でしかない。
たしかレーニンだったか、「地獄へ通じる道は善意で敷き詰められている」と言ったのは。「いい子ちゃん」の、すべてのセクシュアリティを擁護するという<善意>は、本当に、善意なのか。恐喝ではないのか、恫喝ではないのか──「共犯者」に仕立てるための。
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