HODGE'S PARROT

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「線を引く」政治的勇気を持つこと ジュディス・バトラーの議論から




YouTube に海外ドラマ(24、ザ・ホワイトハウスプリズン・ブレイクetc)、それに古楽といった新しく広大なエンターテイメントに足を踏み入れた結果、読書量が落ちるのは必然だろう。これにナップスターが加わったら……。
というわけで、ナップスターに正式に加入する前に、ちょっとカタめの本を読もうと、『現代思想』の10月号臨時増刊「総特集 ジュディス・バトラー 触発する思想」を買った。


まずとっつきやすそうな討議「撹乱的なものの倫理」をスタバで読んだ。対談者は竹村和子氏、村山敏勝氏、新田啓子氏の三名。ここではバトラーが政治的な方向へ、「アクチュアルにアクティヴ」になってきたことに対する両義的な面が議論されている。押さえておきたいのは、児童虐待になるようなセクシュアリティと、セクシュアリティの多様性というときのセクシュアリティはまったく別であるというバトラーの主張である。

竹村  来日時の発言で少し意外だったのは、「セクシュアリティにこれが良くて、これがいけないというのはない。でも小児虐待になるようなセクシュアリティと、セクシュアリティの多様性というときのセクシュアリティとは別物である、それは区別しなければならない」と語った部分です。


新田  子どもの虐待に繋がる小児性愛は取り締まるべきだが、小児性愛への欲望は禁止してはいけない、とも言っていましたよね。


竹村  ではどのように区別できるのでしょうか。


村山  具体的な小児、他者、生身のものに向わなければ、想像的な対象なら良いということではないですか?


竹村  けれども、現実的対象と想像的対象のあいだに明快な境界線は引けないと言っているのが、これまでの彼女の議論ですね。つまり言説と身体のあいだで、どこからが言説で、どこからが身体なのかということです。政治が絡んだ文脈でも、『触発する言葉』の(キャサリン)マッキノン批判のさいに、線引きの危険性は語られていましたね。
 また、いま現実にアメリカで、小児虐待に読み替えてゲイ・バッシングがおこなわれようとしています。だからこの問題については、もう少し口ごもるような応答がなされるかと思っていました。


村山  線を引けないというところに重要性があるのであって、線を引いて、ここまではチャイルド・アビューズの欲望である、ペドフィリアの欲望であると名指ししてしまうことがいけない、というのが『触発する言葉』でされていた議論でしたよね。


竹村  でも彼女の回答は、線を引くべきだということでした。




「撹乱的なものの倫理」p.52-53


また、竹村氏が突きつける「攪乱を提唱することが90年代の問題提起とすれば、2000年になってからは、攪乱が暴走することについて考えなければならないのではないでしょうか。有意味な攪乱と破壊的暴力のあいだの境界線を、どのように引けばよいのでしょうか、境界を引けるものなのでしょうか」という問題提起は、上記のセクシュアリティ関連ともあわせ検討しなければならないだろう。