「エティックとイーミック」というエントリーでも触れた、矢向正人『音楽と美の言語ゲーム ヴィトゲンシュタインから音楽の一般理論へ』(勁草書房)。
音楽と「その美」を、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」を採用することによって、規定し直す。
なぜウィトゲンシュタインの理論が有効であるかというと、
- 美的体験を客観的に確証する方法はない。
- そこにあるのは美的体験が行われているであろうと「推定される状況証拠」のみである。
著者が主張するのは、<美>とは、人々が音楽に対して「肯定的な振舞い」=「是認の身振り」によって産み出されるものである、ということだ。美とは、人々が、それを「美として信じる」ことによって「成立」している。美とは、実体的なものではなくて、「そこにはたらく効果」として想定できるにすぎないである。
第三章で矢向氏は「よい音楽」というものを考察する。音楽は美を志向している──すべての音楽がそうとは言えないまでも、少なくとも「よい音楽」を志向する性質をもっているとする。よい音楽は、次の二つに分けられる。
- よい音楽1 (社会的)文脈に適合的な音楽
- よい音楽2 (社会的)文脈から離れていてもなおよい音楽
そして、「音楽そのもの」(音を持続・反復するゲーム)を、
- 一次ゲーム
「音楽への言及」を、
- 二次ゲーム
とする。
まず、(社会的)文脈に沿う音楽に対して、一次ゲームの外側から言及する場合、一次ゲームの参加者たちが有する(社会的)文脈に対する信頼や前提が崩されない限り、一次ゲームはそのままよいゲームとして言及される。二次ゲームでは、(社会的)文脈に適合しているかどうかが示されればよい。
p.145
しかし、(社会的)文脈から離れている音楽に対して、一次ゲームの外側から言及する場合には困難が生じる。文脈から離脱している、つまり音楽なるものが、そこでは無規定になっているからだ。したがって、「よい音楽についての前提条件がなく無規定であるところに、言及の中で前提条件を作りださなければならない。それでは、無規定でありながら、なおかつよい音楽とはどういうことか」(p.145)
そこで著者は、二次ゲームと一次ゲームの「循環・往復運動」の中から美的な音楽が「創造」されるのではないかと考える。
美は、音楽と言説とが循環しながら相互補完する内部で理解されるべきである。こうして、美という現象を音楽に関わるすべての人が対等に巻き込まれる音楽のゲームとして説明できる。すなわち、二次ゲームと一次ゲームの循環の中から美的な音楽が効果されると言うことができる。
p.147 (強調は引用者)
音楽と美の言語ゲーム―ヴィトゲンシュタインから音楽の一般理論へ
- 作者: 矢向正人
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 2005/09
- メディア: 単行本
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