HODGE'S PARROT

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知的ジェノサイド、あるいは「胎児の夢」




id:yskszk氏の定義からすると「認められない」だろうが、「市井の人」である僕は、週末の休日ぐらいしかきちんとしたエントリーを書く余裕がない。しかも文筆家と違って、思っていることを言語化するのに非道く難儀する。だから他の人の「語られかた」がとても参考になる。

川原泉問題」は、2ちゃんねるの「哲学板」でも語られている──川原問題というよりも「yskszk問題」であるようだが。
ここでは、エドワード・サイードの「オリエンタリズム」が引き合いに出され、yskszk氏の発言について論じられているのだが、以下のコメントは僕の思っていることを明晰に言語化してくれているので、引用させていただく。

77 :考える名無しさん :2006/08/20(日) 08:58:56
>>76
一番肝心なのは、同性愛者を蛇に喩えることで「彼らは我々市井の人とは違う存在である」
というコノテーションを与えていることだと思うのよ。
そうすることで「彼ら」は「我々によってイメージされる存在」であり続けるわけ。
蛇に悪いイメージがあるとか、政治的に正しくないというのは二次的な問題。



http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1153979650/l50


これはキャサリン・マッキノンの表象批判にも通じるところがあるが、だからといってマッキノンのように「だからポルノは禁止すべきだ」と言うものではない──id:ululun氏はそのように「誘導」したがっていたようだが。
ululun氏の「政治的な正さ」「言論の自由」を引き合いに出した議論は、マイノリティの「声」を「聞こえ難くする」ノイズとして機能しているように僕は考えているのだが、yskszk氏のエントリーは、そのレベルが幾分違う。
圧殺している──だから僕は懸念している。


イードに関連して、例えば、姜尚中氏は『オリエンタリズムの彼方に』で以下のように記している。

当時のわたしは、『オリエンタリズム』の内容はおろか、その存在すら知らなかった。しかし、その中でサイードはすでに、西側の映画やテレビではアラブやイスラムは、好色漢や血に飢えた嘘つきのいずれかの連想と結びつけられ、他方でニュース映画や写真では人格も、個性も、個人としての経験も問題にされず、怒りや悲惨、奇矯な身振りの群衆として描かれてるだけだと指摘していたのだ。


この「視覚的ジェノサイド」あるいは「知的ジェノサイド」のヘゲモニックな浸透力は、今や「系統的な人間らしさの剥奪」とも言える大規模な「予防的自衛」や非戦闘員への先制措置となって中東の地に数々の悲惨と憎悪をまきちらしている。その最も劇的な焦点となっているのは、言うまでもなく、パレスチナであり、イラクである。


これらの地で起きている悲劇が、中東地域の局地的な出来事にとどまらず、より「普遍的な」問いをもってわれわれに迫るのは、そこに<他者>をめぐる近代的な知と権力の、最も深い断絶と亀裂が浮かび上がっているからである。




姜尚中オリエンタリズムの彼方へ―近代文化批判 (岩波現代文庫)』(岩波現代文庫)p.iv-v

ジェノサイドとはオーバーだと思うかもしれない。しかしululun氏が「漫画などの創作表現を行うときに差別とどのように向き合うべきなのか、社会的にみて差別は何処まで容認されているのかを考え直すきっかけとなっている」と書くとき、yskszk氏は「これは問題にするほうがおかしい」と書く。知的に、客観性を装って「市井の人々はこうだろう」と記すことを忘れずに、そしてむろん川原を「擁護する形式」で。
しかしどうしてもそこに「執拗なまでの自己中心的なもの」が感じられる──だから「利害」はないのか、と疑問に思ったのである。『嫌韓流』への違和感と同じような。
現実に存在するマイノリティへの差別はどうでも良いのだろうか。しかもそのエントリー直前でyskszk氏は川原泉のセリフをタイトルにしているが、これが”「コリアン」より「チョン」の響きが愛らしい”でもいいのか? 「ニガー」でもいいのか? と言いたくなる。




川原泉問題は「インタラクティヴ読書ノート別館の別館」でも論じられている。

いろいろと参考になるが、しかし僕は繊細な読解にはあえて立ち入りたくない。「全体としての差別主義」にも、だ。