HODGE'S PARROT

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ボクシングのリングは、一種の祭壇、一国の法律が適用されない伝説的な空間のひとつと言える



ボクシングは、主張する。自分は、理論上、あらゆる偶然を超越しているという点で、人生に優っている、と。そこには、まったく意志の入っていない要素は、ひとつもない。



ジョイス・キャロル・オーツ『オン・ボクシング』(北代美和子 訳、中央公論社)p.22

On Boxing

On Boxing



ジョイス・キャロル・オーツJoyce Carol Oates)の『オン・ボクシング』を書棚から出し、読んだ。著名な小説家であり、プリンストン大学で英文学を教えるオーツのボクシング論は、「女性の筆が、リング上で、これほど強烈な連打を浴びせたことはない。オーツは、ヘヴィ級のようなパンチを打つ」とゲイ・タリーズが絶賛し、ノーマン・メイラーは「かつて出会った最も創造的なフェミニズム行為のひとつ」と褒め称えた。
冒頭の続きを引用したい。

ボクサーが対決する相手は、彼自身の夢=歪んだ像だ。彼の弱さ、失敗する可能性、重傷を負う可能性、計算違い、そういったものすべては、「相手」に属する強さだと解釈できる。その意味で、相手は、彼自身の夢=歪んだ像なのだ。彼の私的存在のパラメーターは、「相手」の限りなき自己主張に他ならない。私の強さは、完全に私のものではない。私の相手の弱さなのだ。私の敗北は、完全に私のものではない、私の相手の勝利なのだ。それは、夢、あるいは悪夢。
彼は、私の影=自己であり、私の(単なる)影ではない。アリストテレスの悲劇の定義を使えば、「崇高で、完全で、一種の広がりを持つもの」としてのボクシングの試合は、あらゆる儀式が、その参加者を包含するように、二人のボクサー両方を包含する競技である。(だからこそ、モハメド・アリの最も偉大な試合は、数少ない負け試合のひとつ──フレージャとの最初の英雄的対戦である、などと言えるのだ。)


古いボクシングのことわざ──確かに誤っている公理──に、ブローが来るのが見えれば、そして、自分は決してノックアウトされはしない、と決意していれば、ノックアウトされることはありえない、というのがある。
このことわざには、もっと微妙な、もっと不安な意味がある。つまり、死──「彼の」死──までも含めて、リング上で起こることはすべて、彼の意志、あるいは、彼の意志の不履行による、ということだ。
それは世界の縮図である。その中では、私たち自身の行為だけでなく、私たちに敵対して行われる行為にも、人間的な責任を負っている。



p.22-23

オン・ボクシング

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