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Reveal、あるいはヨブの逆説




スロヴェニア共和国(Republika Slovenija、Republic of Slovenia)は、同性カップルを法的に承認・保護するシビル・ユニオン法を通過させた。これにより同国は、旧共産主義国家として、チェコ共和国に続き、ゲイ&レズビアンの権利を認めた2番目の国家となった。

Same-sex unions become law in Slovenia [Gay.com]

The Balkan republic of Slovenia has legalized same-sex unions but put restrictions on the ceremony, United Press International reported Monday.
The measure allowing gay and lesbian couples to register their partnership went into effect Sunday, according to Belgrade's B92 radio station.

Slovenia's gay and lesbian organizations, while welcoming the move as a concrete step, criticized the law as "insufficient," noting that it limits those attending the ceremonies to two partners and a local community registration official.

Friends, relatives or any third person are barred from attending the ceremonies, which can be held only in a state office.

Same-sex partners must register 30 days in advance, submitting documents proving they are sane, healthy and unmarried.

This month, the Czech Republic became the first former Soviet republic to allow same-sex marriages.


UPI では同性婚」(same-sex marriages)と表記されているが、「セレモニー」が制限されるなど、「男女の結婚」と完全に同等ではない──不十分である。ウキィペディアのスロベニアの項を見ると、住民のほとんどがローマ・カトリックであるようだ。


ところでスロヴェニアと言って思い浮かべるのは……思想家スラヴォイ・ジジェク、かな。ジジェクが政治家として、現実的に、同性婚に対しどのような態度を取っているのかは不明だが、思想家として興味深い指摘は行っている。同性愛/同性婚が、象徴的に暴く(reveal)、モラル・マジョリティのパニックである。

結婚という厳かな仮面の裏にある恐ろしい中身(野放図な乱交)と同性結婚という、保守的道徳派(モラル・マジョリティ)にとってはトラウマとなる論点、蛇蝎のごとく嫌われるきわめつけのものとの関係も(人種差別主義者の問題と)まったく同様である。
つまり、同性結婚が、同性愛というのはただその場かぎりの乱交的な快楽を求めているのであって、深い人間関係は結べないという前提を揺さぶるからだ──同性結婚が「まともな」結婚とおどろおどろしくも似ているということが、後者のかけがえのなさを危うくするのだ。逆説となっているのは、モラル・マジョリティの姿勢が秘かに、同性愛は乱交的な快楽追及のままでいることを望んでいるというところである。


同性愛が「それ以上を求める」、つまり二人の深い人間的なかかわりを認める象徴的な儀礼としての結婚を求めると、モラル・マジョリティは必然的にそれを真の結婚の絆をおぞましくも真似たものと見ることになる──君主の裁判と処刑は、正義のおぞましい変装であり、それゆえに、ただの血に飢えた反抗よりもはるかに悪い、贖いがたい罪だという、カントに似ている……。




スラヴォイ・ジジェク『幻想の感染』(松浦俊輔 訳、青土社

ここでジジェクが言っているのは、もともと、本来的に、「猥雑」なのは「異性愛」なのであって、それを覆い隠すために、その本質を否認するために、「猥雑な同性愛」が要請されるということだ。異性愛が「まとも」で神聖であるためには、そのためにこそ、同性愛がそれと反対でなければならず、逆説的に、それを「望む」(欲望する)ということだ。この「猥雑な同性愛」がジジェクの言う「幻想」(空想)である。同性愛嫌悪者(ホモフォビア)は、「幻想の同性愛」を通して、「現実の同性愛」を見る。自分の幻想と合致していれば、実は、それで満足なのである。「そのとおりである」と溜飲を下げることができるのだから。


これはジジェクの人種差別の理論の応用である。人種差別、とくにユダヤ人差別についてジジェクは次のように述べる。

反ユダヤ主義の根本的欺瞞は、社会的敵対性を、健全な社会の組織、社会の身体と、それを腐食・腐敗させる力としてのユダヤ人との、敵対性に置き換えることである。つまり社会そのものが「不可能」であり、敵対性の上に築かれているというのではなく、ユダヤ人という特定の実体の中に腐敗の原因が位置づけられるのだ。




スラヴォイ・ジジェクイデオロギーの崇高な対象』(鈴木晶 訳、河出書房新社)p.196

そして、幻想/空想/妄想の「ユダヤ人」(あるいは「同性愛者」)が欲望される。

空想は基本的に、根本的不可能性というがらんどうの空間を埋めるシナリオであり、空無を隠微する幕である。「性的関係はない」、そしてこの不可能性は魅惑的な空想のシナリオによって埋められる。だからこそ空想は、結局のところつねに性的関係の空想であり、その上演なのだ。そのようなものとして、空想は解釈されるべきものではなく、ただ、「横断される」べきものである。
われわれになすべきことは、空想の「背後」に何もないこと、空想はまさしくこの「無」を隠微しているのだということ、を経験することなのである。




イデオロギーの崇高な対象』p.197

「幻想のユダヤ人」によって「社会関係はない」という事実を隠す。「幻想の同性愛」によって「(異)性関係はない」を隠微する。「不可能性」を否認する。しかし、「現実の」(リアル)のユダヤ人なり同性愛者が現れることにより、その幻想が崩壊する。それが差別主義者にとって「恐慌」なのである。

したがって、社会的空想という観念は、敵対性という概念の不可欠な対応物である。空想とはまさしく、敵対的亀裂を遮断する方法である。言い換えれば、空想とは、イデオロギーがそれ自身の失敗をあらかじめ計算に入れるための手段であるラクラウとムフのテーゼ、すなわち「社会は存在しない」、社会的なものはつねに、構造的不可能性の周囲に構造化され、中心的「敵対性」に横断された、矛盾した領域である、というテーゼには、われわれに固定した社会的・象徴的同一化を授ける同一化過程はすべて、究極的には失敗を運命づけられている、ということが含まれている。
イデオロギー的空想の機能は、この矛盾を、つまり、「社会は存在しない」という事実を隠し、それによって失敗した同一化の埋め合わせをすることである。




イデオロギーの崇高な対象』p.198

したがって差別主義者は、幻想/空想/妄想を「捏造」し続けることになる。「それ」を知りながら、知っているがゆえに。

同性愛を「親不孝」と描く「差別マンガ家」は、実は、異性愛がつねに・すでに「親不孝」であることを知っている。なぜならば、「わたし」がそうなのだから。「わたし」の「親不孝」という事実を否認するために、「別の親不孝」を捏造しなければならない。
まあ、何にでも応用の利くジジェクではある。


もちろんこれだけで僕の「ジョブ」は終わらない。「川原泉問題」は徹底的に「問題化」する。

なぜヨブは、たらたらと自慢話をする<神>が現れたあと、沈黙を守っていたのか。このばかげた自慢話(「……のとき、おまえはどこにいたか」式の一連の尊大な修辞疑問──たとえば「無知の言葉をもって/神の計りごとを暗くするこの者はだれか。/わたしが地の基をすえたとき、おまえはどこにいたか」(ヨブ記」)は、自慢話とは逆の様相を呈していないだろうか。この問いには、ただこう答えることもできるのだ。「それはそうと、こうしたことすべてをする力があなたにあるのなら、なぜあれほど無意味なやり方でわたしを苦しめたのです」。
<神>の激烈な言葉は、ヨブの沈黙を、答えの不在を、かえって際だたせるのではないか。これこそが、ヨブの感じていたことであり、彼の沈黙の原因であるとしたら、どうだろうか。


つまり、ヨブが沈黙をまもったのは、<神>の存在感に圧倒されたからではないし、みずからのあくなき抵抗を、<神>がヨブの問いに答えるのを避けたという事実を、沈黙によって示したかったからでもない。そうではなく、沈黙の身振りをとるなかで、神の無力さに気づいたからである。


<神>は正当でも不当でもない、ただ無力なのである。ヨブが突然理解したのは、ヨブの苦難において実際に試練を受けているのは彼ではなく、<神>自身であるということ、そして<神>がこの試練に無残にも負けた、ということである。




スラヴォイ・ジジェク『操り人形と小人 キリスト教の倒錯的な核』(中山徹 訳、青土社)p.189-190

ジジェクは「キリスト教はこの無力さを暴く[啓示する reveal]」と記す。

この厳密な意味において、キリスト教は<啓示>の宗教である。そこではすべてが啓示されており、その公的なメッセージは、猥雑な超自我的補足物をともなっていないのだ。




『操り人形と小人』p.190

今日、新しい人種差別や女性差別が台頭する中では、とるべき戦略はそのような言い方ができないようにすることであり、それで誰もが、そういう言い方に訴える人は、自動的に自分をおとしめることになる(この宇宙で、ファシズムについて肯定的にふれる人のように)。




『幻想の感染』p,49-50

幻想の感染

幻想の感染

イデオロギーの崇高な対象

イデオロギーの崇高な対象

操り人形と小人―キリスト教の倒錯的な核

操り人形と小人―キリスト教の倒錯的な核