青山ブックセンター本店に、現在、「80年代とは何だったのか」を考えるための書籍がセレクトしてあるコーナーがある。そのセレクトぶりに感心し、何冊か手に取って、ニヤリとさせられた。やっぱり本屋には足を運ぶべきだな。
ただこのコーナーに、笠井潔『ユートピアの冒険』がないのは、残念だ。まあこの本は現在品切れなので、仕方がないのだが(残念だ)。しかし80年代の「軽佻さ」を総括するこの本の「マジメさ」は、80年代を考えるうえで、重要な参照点になりうると思う──たとえこの本が、女子大生とカバ先生の対話というポップな体裁になっているとしても。
1950年代の「アメリカの夢」(それはスピルバーグの映画「バック・トゥー・ザ・フューチャー」で神話的に作品化されています)に照応するポップ感覚には、おそらく矛盾した二面性がある。制度の産物であると同時に、制度を逸脱する欲望でありうる二面性を、露骨な矛盾にまで展開しなければなりません。けれどもいまのところ、だれひとりこのような、繊細きわまりない野蛮さが要求されるであろうイデオロギー批判の作業に、具体的な成功はおさめていないのです。
1970、1980年代の新しい社会運動にたいして、ぼくがガタリ風*1の過大評価に賛成できないのは、この点と無関係ではありません。エコロジーもフェミニズムも、いずれにせよ糞真面目すぎる。糞真面目であること(倫理主義的倒錯)の陥穽について、あまりにも無自覚でありすぎる。それは五月革命の精神にも刻印されていたポップ感覚からさえ、むしろ後退しているのではないか。
同時に、ヒッピー・ムーブメントがシャロン・テート事件に帰結したような、ポップなカウンター・カルチャーでさえ陥らざるをえない観念的倒錯について、ぎりぎりの方法的反省を回避しているのではないか。つまるところ、こんなふうに感じているようです。
そこで──先日エントリーした、秀逸なる「フーコー追悼文」を書いた──アンドレ・グリュックスマンである。『ユートピアの冒険』第4章は「マルクス主義と収容所国家」と題されたグリュックスマン論で、マルクス主義が必然的に生み出す「収容所」の問題を、デリダやフーコーの提出した観点を踏まえながら、論じる。
▼マルクス主義の収容所国家は、たんなる蛮行において批判されるだけではない。筆舌につくしがたい蛮行なら、アッチラもジンギスカンも、教科書的な完璧さで実行したろう。しかしそれらは、たんにアジア的な蛮行にすぎない。ヨーロッパ的な蛮行は、それとは決定的に違っている。
アジア的な蛮行は、たんに野蛮であるにすぎないが、ヨーロッパ的な蛮行は、野蛮や無知を克服したと称する至高の理性の名において、逆説的にも、アジア的な野蛮でさえ鼻白むような徹底的な野蛮を実現するんだから。
▽それ、わかるような気がするわ。カバ先生も『テロルの現象学』で書いてたけど、倫理を排他的に主張する倫理主義は、無倫理や没倫理よりも徹底した反倫理に帰結するってことね。倫理は正義でもあるし、理性でもある。
▼近代的な理性の権力や、その内面化システムについては、すでにフーコーが『狂気の歴史』や、『監獄の誕生』で克明に批判していた。近代という理性の時代は、前近代的な非理性や反理性を社会秩序の外部に排除する「大いなる幽閉の時代」だった。つまり、徹底的に理性的たらんとした近代社会こそが、労働監獄や精神病院や、つまるところナチス・ドイツやソ連で典型的に実現される強制収容所の原理を生みだしていた。
(中略)
▽こういうことかしら。社会主義が、というよりマルクス主義が、歴史的な人間解放の理念をかかげていたとしても、それが歴史的真理を所有していると称し、真理の名のもとに社会を再組織する理性の言説として君臨するかぎりにおいて、形而上学的な抑圧的全体の原理にならざるをえない。そこにこそ、マルクス主義の収容所国家を可能ならしめた究極の原理がある……。
p.127-128
グリュックスマンの著著に『料理女と人喰い』(邦題『現代ヨーロッパの崩壊』)がある。「料理女」というのは、「権力の抑圧と支配にさらされた人々を比喩するものとして、かつてレーニンが好んで使っていた言葉」であり、「人喰い」は「レーニンをはじめとして、権力の座についた革命エリート」のことだ。
「なるほど、まったく圧政を受けたくないという欲求が自らを保持するのは困難であって、古代ローマの地下墓地のなかで、蜂起せる代々のパリ市民のそれのなかで、コルイマの極北の砂漠のなかで、その欲求は追い求められている。しかしながらそれは持続する。なるほどこの持続そのものが不利な結果を招くこともある。
実際、私どもは偽り(フォス)のコミューンの名において何と多数の共同洞穴(フォス・コミューン)を掘らなかっただろうか。しかしながら、それもやはり異議申し立ての一つなのだ。国家破壊は明日には完了しないだろう。それでも、その破壊はずっと前から始まっていて、世紀から世紀へ私どもの知恵をつくり、誰もがけっしてその破壊を完全に中断することはできなかった。よしんばロシアにおいてさえも」(『料理女と人喰い』)
p.130
観念的倒錯は、「料理女」を「私たち」という名の下に収奪し、「真理」の名において利用する。それは「革命エリート」が「人を貪り喰う」前段階である。
『収容所群島』を書いたソルジャニーツィンは「嘘だけはよそう」と書いていた、とある。もはや「私たち」はレーニンのアジテーションを信じることはできない。
嘘だけはよそう、「私たち」は「あなたたちの私たち」と違うのだから。
強要はよそう、「私たち」は「あなたたちの私たち」と同一化する義務は一切ないのだから。
グリュックスマンは「全体主義を戸外に追い出せ? ところが全体主義はそういう者たちの戸口に来ているのだ!」と語る。
p.132
アンドレ・グリュックスマンが書いたフーコー追悼文『<測量士>フーコー』の仏タイトルは「En horreur de la servitude」であった。
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