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歴史のレトリック、批評のポリティックス 悪口を習う




Oops! このニュースこそ「日本的無意識」がどのように構築されてきたのか、考えさせられるぜ。
資金提供で親米政権安定化…CIAの対日工作明らかに [Yahoo! ニュース/読売新聞]

国務省は18日、米中央情報局(CIA)が1958年から10年間にわたり自民党や旧社会党右派の有力政治家への秘密資金提供などを通じ、親米・保守政権の安定化と左派勢力の抑え込みに向けた工作を実施していたとの記述を盛り込んだ外交資料集(1964〜68年)を刊行した。


 国務省が編さんしたもので、資料によると、CIAの秘密工作には<1>自民党主要政治家への財政支援と選挙アドバイス<2>親米で「責任ある」野党育成に向けた野党穏健派の分断工作<3>極左勢力の影響力排除のための広報宣伝活動<4>同様の目的による社会各層の有力者に対する「社会活動」――の4種類があった。

米政府が自民・穏健野党へ秘密支援 米外交文書で確認 [goo ニュース/朝日新聞]

国務省の記者発表文によると、作戦は「主要な親米政治家への支援と、左派野党内から、穏健派を分裂させることを目的とした」ものだったが、小規模だった。ジョンソン政権は、計画が適切とはいえず、明るみに出た場合のリスクに相当しないと判断し、64年に停止したという。政治家への資金援助ではなく、共産主義の影響を排除するための社会・広報宣伝的な秘密計画は68年まで続いていたという。史料集のエドワード・キーファー編集長は「作戦はごく小規模のものだが、資金援助は含まれていた」と朝日新聞に語った。


U.S. admits CIA gave LDP money in 1950s, 1960s [The Japan Times]

The document, titled "Foreign Relations of the United States, Vol. XXIX, Part 2," also suggests that some of the CIA money went to moderate members of the now-defunct Japan Socialist Party, the LDP's rival at the time, apparently to help them form a moderate breakaway.

It is the first time the U.S. government has formally admitted having a covert financial program for Japanese politicians, a State Department official involved in compiling the document said.

CIA gave secret funds to pro-U.S. Japanese politicians in '50s-'60s [Mainichi Daily News]

At that time, the Diet was divided mainly by the Liberal Democratic Party and the Socialist Party of Japan. The "pro-American and conservative" politicians noted in the document are believed to be LDP members, while "the leftist opposition" is considered the SPJ.

左派弱体化へ秘密資金 米CIA、保革両勢力に [goo ニュース/共同通信]

米ソ冷戦が本格化した当時、日本を反共の「とりで」にしようと、自民党への支援に加え、左派勢力を分断する露骨な内政干渉まで行った米秘密工作の実態が発覚。日本の戦後政治史や日米関係史の再検証にもつながる重要史実といえそうだ。

なるほどー。CIAという「顔のない」非人格的装置(エージェンシー)が、密かに水面下で権力を行使し、日本という親米国家の主体を構築する。「自由」を唱える政治家も、「社会」を訴える政治家も、CIAというパノプティコンに制御され監視され、規律・訓練された──それぞれの「責任を果たす」──主体/臣民でしかない。ということは、そもそも日本における左翼/右翼、保守/革新にしても、アメリカ人の概念操作による「産出物」でしかないのだろう。


こんなことを思ったのは、巽孝之『ニュー・アメリカニズム』を「再読」したからだ。タイトルにもなっている終章*1「ニュー・アメリカニズム」は、『現代思想』の特集「アメリカのフーコー」が初出で、ここで巽氏は、フーコー化されたアメリカ(フーコーディアン・アメリカ)、アメリカ化されたフーコーアメリカン・フーコー)について、刺激的な論を展開していく。

フーコー哲学がたまたまアメリカに移入されたというよりは、むしろアメリカ的精神史がフーコー理論の中にこそ二十世紀末に最もふさわしいモデルを見出したのだ。
いかにアメリカがフーコー化されたかではなく、フーコーがいかにアメリカ化されたか、それが問題だ。




巽孝之『ニュー・アメリカニズム』(青土社)p.253

●ニュー・ヒストリシズム/濫喩としての歴史
巽氏は、ポール・ド=マンとの関連で、「濫喩」(キャタクレシス)に着目する──ウォルター・ベン・マイルズが比喩乱用としての「濫喩」の局面に着目したことを着目する。フーコー(やド=マン)は比喩の乱用を理論的基礎においていた、と。

脱修辞学的批評とも呼ばれるこのアプローチは、ふつう字義的に「基盤」(fundamental)と考えるものがじつは「大地を求める気分」(fundus=bottom)の隠喩にすぎず、字義的に「概念」と考えるものがじつは「ものをつかむ仕草」(capio=to take)の隠喩にすぎぬことを(デリダ「白けた神話」一九七四年)、いっぽう「椅子の脚」(the legs of the chair)や「山の顔=斜面」(the face of the mountain)はほんらい人間ならざるものの擬人化であるにもかかわらず字義的にふるまいつづけていることを、明るみに出す(ド=マン「メタファーの認識論」一九七八年)。

自己の隠喩性を忘れて字義としてふるまう言語の裏に「死んだ隠喩」の残骸を残し、非人間を人間並に扱って平然としている言葉の怪物性、これが「濫喩」である。




p.256-257

この「隠喩が字義と誤読されて」きたこと、つまり「濫喩と誤読の歴史」から、私たちが「文化」的範疇生産の結果でしかないものを、いかに「自然一般」として「読み誤ってきた」ことが、ようやく理解/了承できる。例えば、「人種一般」はたんなる白人的概念操作の効果でしかないこと、「性差一般」はたんなる父権制支配戦略の産物でしかないもの、「階級一般」はたんなる支配階級側戦略の結実でしかないこと、これらのイデオロギーが顕在化するのである。「疑わしき点」を暴くのである。

フーコー的言説は歴史や哲学や批評すべての領域を横断するが、にもかかわらずそれらすべてに拮抗するアイロニカルな反定立をなす。いわばメタ・ディスコースとでも呼べるものによってディスコースの成立基準を、字義と隠喩の境界線自体を乱用しその分解を目論む者、それがホワイトの考えるフーコー像であり、フーコー的言説が濫喩とならざるをえない根拠である。




p.258-259

そのようなフーコー的視点・レンズを通してある事象に注目すれば、そこには「字義とは異なる」政治的可能性が開かれる。「字義的」なヒストリー(歴史)と異なる、それどころか「字義と正反対」のニュー・ヒストリー(新歴史)の登場だ。しかもニュー・ヒストリシズム(新歴史主義、New historicism)は──その手法がたんなる旧套の歴史批評と峻別されるだけではなく──政治性を帯びた紛れもない政治的批評に他ならない。

そこで巽氏は、ニュー・ヒストリシズムの代表者とも言うべきスティーヴン・グリーンブラッドの仕事を紹介する。フーコー理論が「思いのほかフィットした」八〇年代アメリカ、すなわちレーガン大統領時代のアメリカについての分析である。
レーガン大統領は──字義的な歴史の上では──スターウォーズ政策によって、冷戦構造に拍車をかけた人物である。「その役割を説明する作業こそ通常でいうヒストリシズムにほかなるまい。

ところがまったく同時に、スティーヴン・グリーンブラッドの「文化の新詩学」の意見を発展させるならば(『悪口を習う』第八章)、そもそも大統領でありながら元映画俳優であり、大統領演説と同時に映画作品引用集成でもあるというインターテクスチュアルな語りをもつレーガンだからこそ、結果的に映画産業と政治国家の区分を、レトリックとポリティクスの区分を、ひいてはそもそも歴史を支えていた事実と虚構という二分法自体をゆらがせるばかりか、皮肉にも冷戦に代表される二極構造そのものの緩和を演じてしまったのだという正反対の読み方、すなわちニュー・ヒストリシズムが成り立つ。
この視点に立つかぎり、レーガンに代表される八〇年代アメリカにおいて、冷戦促進のポリティスクの盲点に冷戦解消のレトリックが息をひそめていたという経緯が透視できる。


オリバー・ストーン監督一九九一年の『JFK』がスキャンダラスでありながらきわめて「現在的」に映るのも、レーガン以後の政治学からケネディ暗殺を再構成するという歴史操作が、フーコー以後のアメリカ像を思いのほか反映しているためなのである。




p.259


もちろんグリーンブラッドの「レーガン論」にも批判がある。批判的対象物との類似、その反復。「悪口を習って」いるのか、それとも「悪口を教えて」いるのか。

マイケル・ギルモアの批判するところによるならば、正統派ニュー・ヒストリシストと目されるグリーンブラッドにせよマイケルズにせよ、一見無縁の歴史的事項同士を驚異的論理で接続してしまうという超絶的批評技術を駆使するためきわめて劇的演出が強くなり、まさしくその「演出過剰」という一点でレーガン的政治ジェスチャーさえ反復してしまう。




p.262

であるならば、歴史的起源を暴くべく、ラディカルな顛覆を目論み、「悪口を習っている」私たちとは、いったいどのような存在なのか。「私たち」は何者か。

それは、いまわたしたちがヨーロッパ思想と思っているもの自体が全地球的資本主義化(アメリカナイゼーション)の効果であり、ひいてはわたしたちの批評的主体そのものが決して「自然」なものではなくアメリカン・アカデミーを経由した教育的「文化」の効果にほかならないことを痛感させる。


(中略)


前衛と通俗、知識人と大衆、写実と幻想の差異が脱構築された時代は、さてわたしたちがアメリカを見ているのか、それともアメリカを見るわたしたち自身があまりにもアメリカナイズされているのかという国家的区分さえ不分明になるような主体錯誤の時代に等しいからである。




p.272-273


フーコー化された CIA 、at the same time、 CIA 化されたフーコー。それぞれの「封じ込め戦略」と舞台裏での密やかな「交渉」。それが問題だ。Curse it!



[Stephen J. Greenblatt]

ニュー・アメリカニズム―米文学思想史の物語学

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悪口を習う―近代初期の文化論集 (叢書・ウニベルシタス)

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Learning to Curse: Essays in Early Modern Culture

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*1:旧版による