HODGE'S PARROT

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You must be possessed and you must be strive to possess your possession.




高橋正雄 編『ヘンリー・ジェイムズ研究』(北星堂書店)より、藍原乾一「ヘンリー・ジェイムズの文学批評」。ジェイムズを中心・中点に置き、ジェイムズ以前の「過去の批評家」としてサンド・ブウブを、「未来の批評家」としてT・S・エリオットを引き合いに出して、ジェイムズの批評的態度を照射するもので、とても興味深い。
ジェイムズの「知ったこと」は何か、そしてジェイムズの「過去(未来)の感覚」は如何に。


サント・ブウブはこんな文章を残している。

「もし人々が、本当のことを大声で語り始めたなら、社会というものは瞬時ももつまい。大音響をあげて、根底からひっくり返るであろう。サムソンの腕の下のフィリスタンの寺院の様に、或は大声をあげれば雪崩なしには済まぬあの鉱山の坑道や山獄の剣呑な道路の様に」




藍原乾一「ヘンリー・ジェイムズの文学批評」p.252

これは単純な箴言ではない。サント・ブウブ一流の洞察が含まれている。藍原氏が指摘しているように、容易なことではひっくり返りそうもない「社会的なもの」を前提とした発言である。つまり、

「社会というもの」が確固として存在している限り「本当の事」は容易にのさばれない筈だ。




p.252

フィリスタン(市民)は、英雄サムソンを「神話の檻」の中に封じてしまった、と藍原氏は述べる。

その挙句にロマン派の詩人と十九世紀の文人は、自己をサムソンに擬して檻からの解放を叫んだり、社会を檻に擬してその様態を観察したりする。つまり、個性的な詩と写実的な散文が盛えるのだが、それは何れもヨーロッパ近代の市民社会を前提に持っているのだし、一般に十九世紀西欧文学は「社会というもの」が存在する所で「本当の事」を求めた個人の声であると考えることもできるであろう。




p.252-253


檻と言えば、ジェイムズの『檻の中』という小説がすぐさま思い浮ぶ。そしてそのジェイムズのヌーヴェルを「逃走の線」として論じた、ドゥルーズ=ガタリの文章が。

女は壁を突き抜け、ブラック・ホールの外に出たのだ。一種の絶対的脱領土化に達したのだ。「彼女はあまりにも多くのことを知ってしまったので、もはや何一つ解釈することができない。視覚を研ぎ澄ましてくれる闇は、彼女にとってもはや存在しなかった。残っていたのはどぎつい光だけだったのである。」
人生では、このジェイムズの文で述べられている以上に遠くまでいくことはできない。




ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ千のプラトー』(河出書房新社)p.226


ところで、人為的に「闇」=「檻」を設定し、そこからの「解放」を叫ぶ欺瞞が存在したら、どうであろうか。「偽の檻」を想定し、そこから「偽の解放」を叫ぶ政治的なシステム。つまり「本当のこと(真理)」を語っていることを装い、解放を装い、しかしながら実は「社会の檻」を破壊するどころか、人々を「そこ」に封じ込めることを目的とした卑劣な権力の存在を。

精神分析は、<生政治学>的な状況に、それとはまったく異質な、きわめて古いタイプの「法」の理論を結びつけ、性という領野を大規模に押し広げていく。性はそこで、隠された「真理」そのものとして語られる。人間は、その幼児期において、その生育環境において、家族において、社会において、徹底的に性的な存在として語りなおされるだろう。
性こそが隠微されることなく露呈されるべきであるという言説が、まさに「真理」を巡りながら生じてくる。身体とその快楽こそが、科学性において見いだされる対象として視線に捉えられる。性はまさに、ひとつの領域として創出される。


曖昧にして秘匿されるべき性、それゆえに「真理」を発動する見えない中心とされる性。




檜垣立哉『生と権力の哲学』(ちくま新書)p.112


「嘘の本当」を語ること。あるいは「本当の嘘」を語ること。それは似非科学、カルト宗教の大いなる武器である。巧妙な戦略である。

コノウソハホントヨ、ソウ、コレハホンモノノウソヨ。




マーガレット・ミラー『狙った獣』(雨沢泰 訳、創元推理文庫)p.7

それは、「抑圧の仮説」は疑わしいにもかかわらず、何故かくも強力な言説として幅をきかせているのかというものである。この問いは、性を論じることの政治的・倫理的なスタンスそのものに関わる。性は「抑圧」されていると述べ、それを告発することに熱心な者とは、実際には、そうした「抑圧」を偽装させるものと、同じ体制において生き延びているのではないか。
「抑圧」の告発者にとって、「抑圧」を想定することは、大きな利益をもたらすのではないか。


これらの議論において、フーコーが標的とするのは、まさにある種のフロイト主義である。性はつねに「抑圧」されていて、隠微こそがその固有の存在様態であると理論化したのは、ヴィクトリア朝ブルジョワジーの一種の末裔ともいえる、ウィーンにおけるフロイトである。
そして、隠された秘密である性を明らかにすることが、「真理」を提示することであると主張しつづけたのは、フロイト主義を継ぐ者たちである。
「抑圧の仮説」とは、まさにフロイト主義の蔓延化のひとつの結果でもある。それは性は「抑圧」されているがゆえに「真理」であり、かつそれを告発することが、権力に対する抵抗を形成するという、ある政治的な仕組みをつくりあげる。




檜垣立哉『生と権力の哲学』p.114-115

であるならば、カルト宗教によって「救われた/解放された」と「信じる」人々の存在も、むろん、否定できないわけだ。そして「歴史修正主義者」は、その「救われたと信じる」一人の証言を楯に、「カルト宗教」が殺した何百人、何千人、何万人のことを直視せず、その「犯罪」を無視し続けるだろう。

You must be possessed and you must be strive to possess your possession.──「所有される」とは個性に所有され観念に所有されることであり、父や兄のように狂気に取り憑かれ、ウェブスターやダンのように死に取り憑かれる事であろう。「所有された君を所有する」とは個性や観念、狂気や死を所有する事、取り憑いたものに犯される事なくそれらを支配してそれらに形式を与え、苦悶する魂を製作する精神に転化することであろう。


(中略)


まことに、思想に捉えられて思想を捉え、個性を所有して個性を脱却する。これがジェイムズの掲げた芸術家のすがたであった。




藍原乾一「ヘンリー・ジェイムズの文学批評」p.260-261


ヘンリー・ジェイムズ研究

ヘンリー・ジェイムズ研究

生と権力の哲学 (ちくま新書)

生と権力の哲学 (ちくま新書)