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かくも単純な悦び  自殺あるいは葬儀屋とラブホテル




ここ数日の職場でのランチの話題は、ジダンの「頭突き」と元アイドル歌手、甲斐智枝美の自殺に尽きるのではないだろうか。「なぜ/どうして」という緒言から「そうだよね」という了承でもって45分間のビジネス・コミュニケーションは終了する。

「なぜだって? たんに当人が望んだからだ」とフーコーが自殺について書いた文章『かくも単純な悦び』を、僕はそのとき披瀝しなかった。なのでここに書く。

『かくも単純な悦び』は、フランスのゲイ雑誌『ゲ・ピエ』(Le Gai Pied)に掲載されたもので、「同性愛者はしばしば自殺する」という精神医学(精神分析)的言説に対して、まずフーコーは絡む。「しばしば」なる語には、悦に入ってしまう、と。

すらりとしてか細く、あまりにも青白い頬をした青年たちを想像してみよう。もう一方の性の敷居をまたぐことができないような青年たち。彼らは、生涯を通じて、死の域に入っては、騒々しい音を立ててドアを閉めながらそこから出てくる。そして、隣人たちに迷惑をかけずにはいない。正しい性との婚姻を遂げることができずに、彼らは死との婚姻を結ぶ。異性とではなく、彼岸との婚姻を。しかし彼らは、本当に生きることができないのと同じく、完全に死ぬこともできないのだ。この笑うべきゲーム*1において、同性愛者と自殺とは、ともども評判を落とすことになる。




『かくも単純な悦び』(筑摩書房ミシェル・フーコー思想集成Ⅷ』所収)p.71


それでは自殺の味方になって話してみよう、とフーコーは提案する。もっとも自殺の味方といっても「自殺の権利」についてではなく、人びとが自殺に対して見せる狭量な現実に対抗するためであり、自殺に強要するもろもろの屈辱、欺瞞、いかがわしい行動に抵抗するためである。

フーコーは「生きている者たち」が自殺をめぐって、ただ惨めな痕跡、孤独、不器用さ、答えのない訴えしか見ようとしないことを批判する。

彼らは、自殺についてしてはいけない唯一の問いだというのに、「なぜ」という問いを問わずにはいれれないのである。
「なぜだって? たんに私が望んだだけだ」。自殺が意欲を失わせる痕跡を残すというのは事実である。しかし、それは誰のせいだというのであろうか。自分の台所で首をつって真っ青な舌を出すのが、それほど面白いとお考えだろうか。あるいは、浴室にこもってガス栓を開くことが? あるいは犬が嗅ぎにくるであろう脳の小さな端切れを歩道に残すことが?
私は、自殺の螺旋運動を信じている。私は、自殺候補者が運命づけられているありとあらゆる狭量な仕打ちに落胆するあまり、かくも多くの人びとが自殺を考えつづけるよりも命を絶つ方を好むのだと確信しているのである。




p.72-73

このフーコーのテクストが、ゲイ雑誌に書かれたものであることを、もう一度強調しておきたい。「生きている者たち」とは誰なのか。「自殺候補者」とは誰なのか。「自殺候補者」に対して「惨めな痕跡、孤独、不器用さ」だけを見る=分析するのは、いったい誰なのかを──「それは誰のせいだというのであろうか」「それほど面白いとお考えだろうか」。

博愛主義者たちへ忠告がある。本当に自殺件数が減るのをお望みならば、十分に反省され、平静で不確実さから解放された意志、そうした意志をもって命を絶つ者しか出さないようにしたまえ。自殺を損ない、それを惨めな出来事にしてしまう恐れのある不幸な人々に自殺を任せてはいけないのだ。いずれにせよ、幸福な者のほうが、不幸な者よりもはるかに少ないのだから。




p.73

[Gai pied]

最後にアメリカの「葬儀屋」と日本の「ラブ・ホテル」についてフーコーは言及する。葬儀屋を見ると、「死はいっさいの想像の努力を摘み取ってしまうと言いたげな、ぞっとするような凡庸さ」に悲しみを覚える、「まだ生きていることを喜ぶ家族のためにだけに役立っている」ことを残念に思う、と。
一方、日本人──われわれよりも自殺に通じている──が性のために設けた「ラブ・ホテル」という幻想的な迷宮、シャンティイー(城館)については、このように書く。

諸君に東京のシャンティイーに行く機会があれば、私の言いたいことがわかるだろう。そこでは、ありうべきもっとも不条理なインテリアに囲まれて、名前のない相手とともに、いっさいの身分(アイデンティティ)から自由になって死ぬ機会を求めて入るような、地理も日付もない場所、そうした場所の可能性が予感されるのだ。
そこで人は、何秒、何週間、あるいは何ヶ月におよぶかもしれない不確定な時間を過すだろう。逸することができないと直ちにわかるであろう機会が、絶対的な自明さをもって現れるまで。その機会は、絶対的に単純な悦びという、形なき形をもっていることだろう。




p.74

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ミシェル・フーコー思考集成〈8〉政治・友愛

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*1:この「笑うべきゲーム」は、まさしく、マーガレット・ミラーのサスペンス小説『狙った獣』で再現されている。「自殺する/できない」ダグラス・クラーヴォーは同性愛者であり、ジャック・ティローラとの関係が「結婚の象徴」であると「犯人」は幻視する。『狙った獣』の「殺人犯」は、「取り憑かれた宣教師」さながら言葉を広め(「言葉を広めなくては」という義務に駆られている)、「真実(真理)」を吐き、そして人を殺す人物であるというのが、とても示唆的だ。