HODGE'S PARROT

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パリで同性婚を阻むもの 差別知




フランス社会党のセゴレーヌ・ロワイヤル氏が、「同性結婚及び同性愛者の養子縁組を支持する」とゲイ雑誌のインタビューで言明したが、右派の政治家ドビルバン氏らはこれに反対している。
アメリカだと、ブッシュ大統領(「われわれの大統領」by ジュディス・バトラー)を始めとする面々が浮ぶが、フランスにはもう一つの「反動勢力」が存在している。
宗教? ではない。宗教よりも始末の悪い「似非科学」である。

ジュディス・バトラーの『アンティゴネーの主張』を読むと、精神分析が、いかにして差別を企てているのか、人権侵害を行っているのかが、わかる。米国の宗教右派や保守政治家よりも「スマート」で、そしてよりいっそう「残酷」な言い回しをしている。
「連帯民事契約法」(パックス、PACS)へ反対するために、パリの精神分析家が、心的権力を発揮したのだ。

ゲイが養子をとる権利はパックスの提議のなかには含まれていなかったにもかかわらず、この提議に反対する人々は、その契約は最終的にはそれを認めることになるのではないかと恐れて、ゲイの家庭で育てられた子どもは精神病発症の恐れが高いと主張する。あたかも《母》とかならず呼ばれたり、《父》とかならず呼ばれる構造、象徴界のレベルで確立されている構造が、《現実界》の進入を防ぐための必要不可欠な心的支えであるかのようだ。


同じようにジャック=アラン・ミレールは、同性愛の関係は承認されなければならないとはっきりと認めつつ、結婚の資格まで与える必要はないと主張した。なぜなら二人の男の関係には、女性的なものの存在が欠けているために、そこに忠誠心を導入することができないからだと言う(異性愛同士の忠誠心にもとづいて結婚の拘束力を証明したわれわれの大統領の行動と背景とは、まったく正反対のすばらしい主張である)。


またべつのラカン派の実践家は、自閉症の原因を「父とのギャップ」や「父の不在」にあると言って、レズビアンの親をもつ子どもに、同じく精神病が発症する可能性が高いと予見している。




ジュディス・バトラーアンティゴネーの主張』(竹村和子 訳、青土社)p.137-138


ミレールという御曹司が、精神分析という「カルト宗教」のライセンスを誰に与えるのか、与えないのか、というのを判断するのは、自由だ。「霊感商法」で金儲けするのも、かまわない。しかし「世俗」にまで口出すのは、いかがなものか。

こういった見方に共通した主張は、オルタナティヴな親族配置が心的構造を変えるにしても、それはふたたび悲劇へと──いつもかならず子どもの悲劇、子どものための悲劇と見なされているような悲劇へと──導いていくというものである。


ゲイの結婚の政治的価値について最終的に人がどのように考えていようとも、ゲイの結婚の合法化をめぐる公的論争は、一連の同性愛嫌悪の言説──それらについては、それぞれべつべつの理由で反対しなければならない──が登場する契機となっている。
近親姦の恐怖、それがある種の人に引き起こす極度の嫌悪感は、レズビアンやゲイのセックスに対しても同じように感じされている恐怖や嫌悪感から、それほど遠いものではなく、またみずから選択した「ひとり親」や、ゲイが親となることや、二人以上の大人が親となること(合衆国のいくつかの州では、親権から子どもを引き離そうとするときに、証拠として使いうる事柄)に対する強い道徳的糾弾と、無関係なものではない。
オイディプスの命令が規範的家族を作るのに失敗しているこのような場面はすべて、ほとんど根幹のところで近親姦に結びついている道徳的な性的恐怖の換喩になっていく危険性がある。




アンティゴネーの主張』p.138-139

これらのことを書きながら思い出したのが、川原泉とその「取り巻きども」のヘイトスピーチ/優性思想である。

まあ、世の中全て同性愛者になっちまうと、
今度は「種の保存」はどーなる、という問題が出てきますけどね。
人工授精またはクローンしか成り立たなくなるし、
それはそれでまた生命倫理的にどうなのかと。
人工的にしか子孫を残せなくなった時点で、
人間は生物種として「弱い種」「滅び行く種」ということになるのかな、とは思います。
そう言う意味では同性愛は生物の本能に反した存在であるとは思います。
 #雌雄同体だったらよかったのかも?


ただ、理解されないとか批判されていることについて同情する気もありません。
だって批判されるのわかってて行動してるんでしょう?


「個人同士はお好きにどうぞ」
「ただ、種として考えるとあんまり増えるのはヤバイんでないの?」
「同情はしないよ、せいぜい生暖かい目で見守るくらいかな」


これが管理人の同性愛に対する基本的な考え方です。



http://gushanorakuen.com/

この人物は、「世の中全て同性愛者になっちまうと」と書きながら、その「全て」の中に「自分が同性愛者である」ことを含んでいない。だいたい「世の中全員」が同性愛者ならば、マイノリティ差別としての同性愛差別は、いかにして可能なのか?
こういった極端な例を出して、生命倫理や生物種の「責任」をすべて「自分以外の同性愛者」に擦り付ける。
人工受精で生まれた子どもに、いったいどんな責任があるというのか。人工授精で子どもを生んだ親にいったいどんな「倫理的」責任があるのか。

これが、この人物のやり方である。これが川原泉の「取り巻き」の論法である。
自分以外の全ての人間が同性愛者でも、自分ひとりは「差別をする権利がある」という異性愛者=「人間」の「主張」である。
これが「優性思想」ではなくて、なんであろうか。

障害者に対する構造化された差別という考え方もまた、反障害者差別立法を議論するにあたって、態度よりも行動を変化させるために近年つかわれるようになってきた。このようにセクシズム、レイシズム、ディスエイブリズム(=障害者差別主義)は実在し、それらはレイシストやセクシストやディスエイブリスト(=障害者差別主義者)によって社会的につくりだされたものである。




マイケル・オリバー『障害の政治 イギリス障害学の原点』(三島亜紀子+山岸倫子+山森亮+横須賀俊司 訳、明石書店)p.153

このようなことを書く人間が川原の「取り巻き」なのか。それとも川原の「取り巻き」だから、このようなことを書くのか?

センチメンタリズムが生まれ、排除された者や社会の周辺におかれた者があふれ、やがてそれらはビクトリアの治世に最高潮に達するのだが、そうして初めて、たくさんの書物の中で視覚障害者、聴覚障害者、肢体不自由者は主要なキャラクターにたったのである。それらの書物は、障害者を本質的に異質で絶対的な他者として見なし、自らを障害者ではないと考える作家によって書かれ、また、そのように考える読者のために意図されたものであった。
極度な知覚障害、動作障害、歩行障害のある人はもちろん誰でも、こういったコンテクストにおいては、否定的か肯定的かのどちからに偏ったステレオタイプ化される傾向になる。しかし、いずれにせよ人間以上あるいはそれ以下のものとして描かれがちである(Fieddler,1981)




『障害の政治 イギリス障害学の原点』p.117

川原泉は、もともとエイズについても、とうてい看過できないことを書いていた(後に削除変更したようだ)。そういうことを書く人物であるということは覚えておいていい。

バトラーは問う。誰が生きるに値し、誰が値しないと思われるのか。境界はどのように引かれ、それを決定している考え方はどのようなものか。境界を維持するため、どんな社会的装置が使われているか。

「それらを考え、生の可能性を広げる必要がある。これまで推しつけられてきた規範的な人間の生ではなく、もっと広い生の可能性です。それはアフガニスタンイラクでの戦争で誰が生きるに値すると思われ、誰が思われないかという問題にも波及し、1945年の広島にも通じます。戦争反対の根拠は、生の序列化という意味においても考えなければならない」

また、バトラーは、同性のパートナーと生活をしているが、同性婚/法制化を支持しつつも、自身は「結婚」という形はとりたくないと言う。「国家の規制に反対し、権利を拡大するとともに、国家からの自由もまた追求すべきだ」という考えだ。

そして同性愛/同性の関係性について、重要な指摘。

エイズ危機の時には多くの人が亡くなったが、ゲイには恋人の死を公的に悼むことが許されなかった。

「同性の関係性も愛も追悼の気持ちも、社会的に『承認』されてはいなかったのです」


これらバトラーの見解について、川原泉のような人間や「その取り巻きども」は、いったいどのような「応答」ができるのか。

わたしたちは、その他の形態の新しい親族関係を考えることもできるし、そのなかには、必要性から生まれた社会組織のほうが、同意よりも顕著な形態もある。
たとえばニューヨークのゲイ男性用診療所がHIVエイズとともに生きている人々を看護するために作った友達システムのようなものも、同じく親族関係の資格を持ちえるだろう。だたし現在のところは、たとえば互いに相手の治療の責任を取り合ったり、死体を受け取って埋葬することが許されていないことからも明らかなように、それらの関係の親族的な地位を、法や病院に認めてもらうには、大変な努力をしなければならない。




アンティゴネーの主張』p.145


川原泉問題」は今後も取り上げていく必要があると、改めて思った。そう、「問題化」していく。

アンティゴネーの主張―問い直される親族関係

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障害の政治

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