HODGE'S PARROT

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フーコー伝説のハッテンバ コレージュ・ド・フランス講義



エピクテトスは香水をつけた若者を拒否することによって、彼が関心を持つ者にはひとつのことしか要求しないことを表明しています。それは飾りを拒否すること、誘惑の術に属するようなものはすべて無視することです。




ミシェル・フーコー『主体の解釈学』(鷹瀬浩司/原和之 訳、筑摩書房)p.394


昨日書いたストア派フーコー関連で、デイヴィッド・M・ハルプリンを読み返していたら、あーわかるわかる、というところがいくつもあった、頷くことしきり。古代のストア哲学が、これほど身近なものであったのか、と再認識した。

フーコーが1970年代から80年代初頭にニューヨークとサンフランシスコで出会ったゲイ・レザーメンのうち、ストア派の哲人をお手本にしたり、自分を哲学者と思っている者など、ほとんどいなかったはずである。
しかし彼らの多くがいまも信じているように、自分たちは風変わりな生の実験、誰も予想しなかった驚くべき道筋に乗り出していると信じていた。この道筋は彼らを、これまでの、ヘテロセクシュアル社会の慣例によって規定され、暴虐なホモフォビア的姿勢に支配されていた、孤立した陳腐な生から解き放ち、新たな、予見不能の、危険な存在様式に投げこんだ。そしてこの道筋は、彼ら自身が進んでいくことで作っていくしかなく、やがてそれまでのあらゆる期待や想像を超えて、自己を変革するものだとわかったのだった。




デイヴィッド・M・ハルプリン『聖フーコー』(村山敏勝 訳、太田出版)p.172


中でもとくに目を惹いたのが、エド・コーエン(Ed Cohen)の記述。コーエンによれば、フーコーは、「バラック」というバスハウス(ゲイ・サウナ、ハッテンバ、ゲイ・コミュニティ=共同体)で連続講義を行っていたのだという。以下はハルプリンの著書からコーエンのテクストの孫引きである。

おそらく、フーコーのホモセクシュアリティの議論でもっとも際立った要素は、それらが最初(非アカデミックな)ゲイ雑誌に載ったせいもあって、彼がこの話題にきわめて親密な態度を取ったことだった。他の文脈でのインタヴュー──そこでは彼は、高名な知識人が彼の研究成果からどのような……そう、「政治的立場」が引き出されるのかを論ずるという役割を、とことん拒否したものだった──とは違い、ゲイ関係の出版物におけるフーコーの単刀直入な態度は、彼が自分の知的活動を、参加中の闘争において戦略的に用いようとしていたことの証明になるだろう。


ゲイのテクストの読者には、彼自身も含まれる。これで自分の主体と「権威」とのあいだにそれまでとは違った関係を得たフーコーは、彼の個々の歴史研究と、それが生まれてきた歴史状況との関係を、より明確にすることができるようになったのだ。
……例を一つだけ挙げると、「バラック」(今は閉店したサンフランシスコのバスハウス)で70年代末にフーコーがおこなっていた連続講義は、彼のセクシュアリティ研究を、性の現場に位置づけよう(位置づけ直そう)とする具体的な試みだった。


フーコーは、知識人でもあるゲイ・コミュニティの一員として、ゲイ運動の歴史的戦略的状況への意見を述べた。他の場所ではアカデミズムの枠に入れていた知を、ゲイ男女の日常を規定する具体的な権力の現場で活用としたのである。





p.147-148

もっともハルプリンは、「バラック」での「70年代末の」連続講義には疑義を懐いているが、「ゲイ男性のグループで、大声を上げて思考するフーコーの行為の実験的な性質」を見事に描いている、とコーエンを評価している。


また、冒頭に引用した『主体の解釈学』で、エピクテトスの挿話から「誘惑の術に属するようなものはすべて無視すること」というフーコーの読解。それがエピクテトスの──ソクラテスのアルキビアデスへの愛と異なった──真理を聴き取るためのエロス(愛と欲望)を無視した態度なのである。

誘惑……。そういえばフーコーの『性の歴史』の読解──もしくはそれへの態度──とも言える、田崎英明ジェンダーセクシュアリティ』でも、「誘惑」について問題が投げかけられていた。

誘惑されることは、自分の声の調子を外してしまうこと、そして、自分の声に合意しないことである。自分の声によって自分の声に反対すること、自分の声のなかで自分の声に抵抗することである。抵抗とは、誘惑に抵抗することではなくて、むしろ、誘惑に屈するところにこそあるのではないか。




田崎英明ジェンダーセクシュアリティ』(岩波書店)p.93

そして田崎氏は、「自己を構成する共同体」──それは社会的なものと区別される──とフーコーセクシュアリティ論を接続する。「共同体は、新しい者に誘惑され、学ぶのである。つまり、共同体はつねに開かれているのである。共同体の方が個体のもとに到来するのだ。」

共同体は開かれている。したがって、その境界を区切ることはできない。ということは、存在するのはただひとつの共同体でしかない。それは「人類」である。あるいは、こういうべきかもしれない。人類というのは、誘惑されて社会から道を踏み誤るその瞬間に形成される存在である。晩年のフーコーセクシュアリティ論が開く政治的地平は、このような人類への参加の呼びかけ、誘惑をはらんでいる。私はこの誘惑に応じるだろうか。そして、あなたはどうするだろう。



田崎英明ジェンダーセクシュアリティ』p.95-96


エピクテトスは香水をつけた若者に「なぜなら君は私を刺激しない、興奮させない」とつれなくする。そして「君と議論してどうなるのか教えてくれ。私に欲望を起こさせてくれ(君と議論しようという欲望を起こさせてくれ)」と言う。フーコーは講義で、そのようなエピクテトス読解を行う。
そして講義の最後、フーコーヘーゲルの『精神現象学』に触れる。

ビオス、生とは、私たちの生存を通して直接に世界が現れてくる方法のことです。このビオスが試練であるということは、二とおりの意味で理解できます。
〔第一は〕経験という意味における試練です。つまり、世界は、それを通して私たちが私たち自身の経験をする場、それを通して私たちが自己を認識し、自己を発見し、自分自身に対して自己を開示するような場として認知されるのです。


〔第二に〕この世界、このビオスは、ひとつの訓練でもある、という意味にも理解できます。つまり私たちは世界を出発点として、世界を通して、世界があるのにもかかわらず、世界のおかげで、自分自身を形成し、変容させ、目的や救済に向けて歩み、自分自身の完成をめざすのです。
このように世界は、ビオスを通して経験となり、それを通して私たちは自分自身を知ります。同時にそれは訓練ともなり、それを通して私たちは自己を変容させたり救済したりするのです。
このことこそ、ビオスはテクネーの対象、つまり理性的で合理的な技法の対象でなければならないと考えていた古典ギリシアとの関係において、重大な変化であり、重大な変異なのだと思うわけです。


(中略)


テクネーの支配によって認識の対象として与えられる世界が、いったいどのようにして同時に、真理の倫理的主体としての「自己自身」が現れ、試練にかけられるような場ともなりうるのか。
西欧哲学の問題がこのようなもの──すなわち、世界はいったいどのようにして認識の対象であると同時に主体の試練の場ともなりうるのかという問題。テクネーを通して世界を対象として自分に与えるような認識主体があり、また、この同じ世界を、試練の場というまったく異なった形式で自分に与えるような自己経験の主体があるということはどういうことなのか、という問題──だとしましょう。
もし西欧哲学への挑戦がこのようなものだとするならば、なぜ〔ヘーゲルの〕『精神現象学』がこの哲学の頂点にあるのかがよくおわかりでしょう。本年度の講義は以上です。ご清聴ありがとうございました。




ミシェル・フーコー『主体の解釈学』p.545-546

聖フーコー―ゲイの聖人伝に向けて (批評空間叢書)

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ジェンダー/セクシュアリティ (思考のフロンティア)

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