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マルクス・アウレリウス「自省録」より




講談社学術文庫からマルクス・アウレリウス『自省録』の新訳が出たので、少しずつ読んでいる。ストア派もなかなかいい。

マルクス・アウレリウス「自省録」 (講談社学術文庫)

マルクス・アウレリウス「自省録」 (講談社学術文庫)

早晩、今日という日に先立って己に言うこと、──私は今日も、お節介な人間や忘恩の徒に、傲慢な人間や欺瞞的な人間に、中傷家や非社交的な人間に出会うであろう。これらすべては、悪徳に対する彼らの無知から生じたものである。
私は、善の本性は美しく悪の本性は醜いと観じ、かの、過ちを犯す人間自身も自分と同類のもの──ただし血と種を同じくするというのではなく、知性(ヌース)と一片の神性を共に持つという意味で、同類のものであることを観取しているがゆえに、私は彼らのだれからも害を受けることはありえない。つまり、何人も私を醜悪なものに包み込むことはできないからである。


また私は、自分と同類の者に怒りを懐くことも、彼を忌避することもできない。なぜなら、わたしは足や手や瞼や上下の歯並びのごとく、協働するために生まれてきたものであるから。されば、互いに啀み合うことは「自然」に反する。そして啀み合うとは、怒りを懐き背を向けることをいうのである。




『自省録』(鈴木照雄 訳)p.25

眠りより醒めたら直ぐ自分に尋ねること、正しい立派な行いを他人から非難されたからといって、まさかそのことがおまえに違いがある(大したことだ)というのではあるまいな。違いはないであろう。
まさかおまえは忘れているのではあるまいな、あの、他人について毀誉褒貶する際の尊大ぶる連中が褥のなかではあのような輩であり食卓に向ってはまたあのような輩であることを。また彼らがいかなることをなすか、いかなることを避けいかなることを追い求めるか、またいかなるものを盗みいかなるものを奪うか、それも手足によるものでなく、欲するならば信義、廉恥、真実、法、善き神霊(ダイモーン)ともなる自身の最も高貴な部分によって、ということを。




『自省録』p.183


で、ストア派と言えば、「晩年の」ミシェル・フーコーを思い出す。ハルプリンの「あまりにも明快な例」を引いてみたい。

「性関係の快楽を、性の規範やその枠組から引き離し、そうして快楽を新たな文化の結晶点にすることによって」、ゲイ・ピープルはフーコーのいう「重要で興味深い一歩」を踏み出した。フーコーによれば、古代世界では、性的禁欲の意味は、「正しく自らを育成した人々が……彼らの生にさらに強度を与える」ことだった。
「ある意味で、二〇世紀でも同じです。人々は、もっと美しい生を手に入れるために、彼らの社会の、そして幼年時代の性的抑圧のすべてを振り捨てようとするのです」。フーコーは続けて、「ジイドがギリシアにいたら禁欲の哲学者になっていたでしょう」と推測する。同じ手を使っていると、セネカがサンフランシスコにいれば、ゲイ・レザーマンに──あるいは、女役のマッチョに──なっているだろう。




デイヴィッド・M・ハルプリン『聖フーコー』(村山敏勝 訳、太田出版)p.150-151


また、古東哲明『現代思想としてのギリシア哲学』でも、ストア哲学ニーチェフーコーの「倫理」と絡め、論じている(「あたかも最後の日のように──M/アウレリウス」)。
歴史が長く、さまざまな立場(奴隷からローマ皇帝まで)からなる多様なストア思想が、「ニーチェという法外な精神を濾過され凝縮し、現代によみがえってニーチェ哲学になったのだ」と古東氏は述べる。

そのニーチェから決定的な影響をうけて育ったM・フーコー。そのかれが、その早すぎた晩年にストアの哲学者たち(ゼノン、エピクテートスセネカ、アウレリウスなど)に心ひかれたのも、ゆえなしとしない。
『性の歴史』の第二巻、第三巻で展開される、ストアたちの「自己への配慮」(エピメレイア・ヘアウトン)の思想。それは「自己への帰還」をへることで国家権力に抗するエチカを提示する倫理学でもあるのだが、そんなストア倫理学に、(おそらく「選別エチカ」を生みだしたであろう)公権力によるのとはまったく系譜も成り立ちもちがった「別のエチカ」の可能性を、つまりは来るべき時代の新エチカの可能性を、フーコーもさぐっている。




現代思想としてのギリシア哲学』(ちくま学芸文庫)p.243

つまり、善はゆるせるが悪はゆるせないなどと正論をはき、その善悪分別の基準はああだ(普遍的だ、対話に基づく)、こうだ(相対的)などと声高に議論することそれ自体が、倫理(善き人間であること)を失ったうえで(失っているから)なされる戯れ言に、思われてしまうのである。
むろん、善悪分別の基準や、倫理規範の相対性の問題。いかにももっともらしい議論のスタイルではある(ソフィストたちが開始した論法だ)。だが、生活現場の実感からいえば、どうも嘘くさい。善し悪しの区別や尺度などに、じつはぼくたちの日常生活は、そんなに困っていないからだ。
毎日の生活現場を素直にお考えいただきたい




現代思想としてのギリシア哲学』p.246

聖フーコー―ゲイの聖人伝に向けて (批評空間叢書)

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現代思想としてのギリシア哲学 (ちくま学芸文庫)

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