HODGE'S PARROT

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ブライアン・フリーマントル『狙撃』



イスラエルは和平を望んでいないのか」
レーヴィは笑いながら、二つのグラスにブランディを注ぎたした。
「妙な事実だが、イスラエルは……あんたがた英国流の言い方でなんといったかな……そう、ダンケルク魂で強く結ばれた国家であるほうが、存在しやすいんでね」*1




フリーマントル『狙撃』(稲葉明雄 訳、新潮文庫)p.505


以下では、『狙撃』の結末にも触れます。ご注意を。

狙撃 (新潮文庫―チャーリー・マフィンシリーズ)

狙撃 (新潮文庫―チャーリー・マフィンシリーズ)


『狙撃』(THE RUN AROUND)は1988年に発表された(邦訳は1993年)。ソビエト連邦崩壊の直前である。
ストーリーはまさに、バルト三国の一つ、ラトヴィア出身のKGB部員ウラジーミル・ノヴィコフの西側への亡命──すなわちソ連という国家への「裏切り」から始まる。
アルバート・アインシュタインの頭脳にマザー・テレサの社会的良心を足したような」とチャーリー・マフィンが評したノヴィコフは、リガ大学で電子工学と数学を首席で卒業しKGBリクルートされたのだが、やがて「ラトヴィア人など二級市民の消耗品」だと認識するに至る。
ラトヴィアはソ連邦自治国家ではなくて、ロシアの植民地なのである。つねづねそう思っていたノヴィコフは、同じラトヴィア人の妻──民族主義者で反体制グループと接触していた──の轢き逃げ事件における、ロシア当局のあまりにも非人間的扱いに憤る。

記録によると、この妻の死がノヴィコフのロシヤへの裏切り者たろうとする動機となったようである。ついに彼が植民地圧迫者とみなすにいたった社会、ソ連邦内でつねに非難されている西側の植民地のどこよりもひどい社会にたいして、全力を傾けて損害をあたえてやろうと決心した端緒なのである。




p.35

ノヴィコフの情報によって、英国を始めとする西側は、東側による要人の暗殺計画が企てられていることを知る。しかし、何時、何処で、誰が、暗殺されるのかは、わからない。
やがて、チャーリーら英国情報局の分析により、スイスのジュネーブで行われる中東和平会談がその標的であることが浮びあがる。
かくして、英MI6、米CIA、イスラエルモサド」、スイス情報局がジュネーブでの暗殺計画阻止をめざして活動を開始する。一方、KGBの暗殺者ワレーシー・ゼーニンはジュネーブ入りを果たし、パレスチナ情報部員スラーフェ・ナルブシーと接触する……。

ストーリーは錯綜している。国際情勢も錯綜している。そして敵対関係も錯綜している。つまり、誰が誰を「裏切って」いるのかが、わからない。もっとも、言うまでもなく、全員が裏切り者であることは間違いない。例えば、英国情報部側内部においても、チャーリーが「経費のこと」で上司を騙し、かつてチャーリーの部下だった人物が、チャーリーの自宅を「チャーリーに教わったやり方」で家捜しする……なんていうユーモア溢れる「裏切り」もある。


順を追っていこう。まずはPLO(パレスチナ解放機構)内部での意見/戦術の衝突がある。PLOのなかで最も過激なファハタ革命評議会は、穏健派と激しく対立している。スラーフェ・ナルブシーは、そのファハタ派に所属し、ジュネーブで行われる中東和平会議を「血でもって」破壊しようとする。

「こっちの写真のうち一枚はエジプトから提供されたもので、彼女(=ナルブシー)はサダト大統領暗殺の裏面にいた可能性が濃い。もう一枚はレバノンからで、南部のマルジーユーナへのイスラエル空爆で死んだゲリラの集団葬儀の場面で取ったものだ。
「彼女が狂信派だという主張の根拠は?」
「二枚の写真につけられた情報だと、女はファハタ革命評議会に所属している、とある」とウィルソンがいった。「それはPLOのなかでも最も過激な派でね。統率者アブ・ニダルは、わが外務省によると、部下の者たちにたいし、ジュネーブで行われている協定に絶対反対を誓わせているらしい」




p.468


そういった状況の下、ソビエトが介入してくる。モスクワは中東の平和を望んでいない。

「ことにワシントンと米国大統領の編曲による平和にはね。シリアはまず最初に隷属国であることをやめただろうしね」




p.505

むろん、モスクワは、パレスチナの「狂信者たち」を利用するだけだ。スラーフェ・ナルブシーは、ソ連の放った暗殺者ゼーニンによって、最終的には殺害されるはずだった。
しかし……パレスチナ内部の分裂(主流派と原理派)を利用し、政治的混乱を招き、敵対国アメリカ主導の「国際秩序」を破壊しようとするソ連の目論見さえも利用する……それが、この小説におけるイスラエルの利害である。
そしてそのモサド作戦部副部長がダヴィッド・レーヴィである。彼のプロフィールを作者フリーマントルは以下のように記す。

レーヴィは”サープラ”、つまりイスラエル生まれのユダヤ人なので、大虐殺(ホロコースト)の実態がどんなものであったのかを知る立場にはなかったが、父親は身をもってそれを体験していた。そして固有の家庭、固有の生活を拒否されたユダヤ人たちがワルシャワの下水道に追いこまれ、鼠のように狩りたてられながらいかにして生存しつづけてきたかを、レーヴィに語ってくれた。
父親は熱烈なシオニストとしてパレスチナにやってきた男で、1947年に英軍を相手に戦ったイルグーン団に所属し、ベギン麾下の幹部の一人であった。このイルグーン団、すなわちパレスチナ国民軍事組織(イルグーン・ツヴァイ・レウンミー)が育って、のちのイスラエル対外情報部”モサド”となったのである。レーヴィが父親のあとを継ぐのは当然のことと思われていた。彼は父親がもっと長生きして、組織のなかで出世した自分を見てほしかったと、よく考えた。




p,155-156

プロのスパイであるチャーリー・マフィンが賞賛する世界最高の諜報組織「モサド」は、パレスチナの「狂信派」の動きはもちろん、ソビエトの介入もすでに察知していた。問題は、いかに「それ」を利用するかである。ジュネーブで行われた西側各国の情報部員による会合は、実は、暗殺計画を阻止するのではなく、「いかに阻止を阻止するか」というイスラエル当局の作戦の一つだったのである。

そういえば、イスラエル側はおれのことを徹底的に調べあげていたのだった! それを想い出すと、よけい腹立たしかった。
「ひとが何人も殺されたんだぞ!」
「不運にもね」と、レーヴィがいった。「ところで、あんたが得たものをよく見るといい。スイスはソヴィエトの工作員と証明できる男を逮捕し、モスクワとアラブがテロリズムで結びついていることを天下に公表できた。それを可能にさせたのは、みんあ、あんたの力なんだ。大成功じゃないか、チャーリー。自分の名声をよくかみ締めるといい」
「なんとも抜けめのないやりかただ」と、チャーリーはいった。「米国からの圧力で、不倶戴天の仲であるパレスチナ側と同じ会談のテーブルにつくことになった。そして、パレスチナ代表団のなかに狂信派の一人が参加することを黙認した。しかもそこで一切を破壊させる侵害行為──あと何年も修復のきかぬテロ行為が発生するだろうことを承知の上でだ」
「ソヴィエトが積極的に一枚噛んできたのは、思わぬおまけだったよ」と、レーヴィは認めた。「あんたがあいつを捕まえなかったら、パレスチナ単独の暗殺行為にすぎなかったとされただろう。また最終的に武器がみつかったとき、ソヴィエトの介入がなかったとしたら、嫌疑は米国に向けられていたはずだ」


(中略)


「米国の管理はわれわれから後退しつつあったんだ」と、レーヴィは打明けた。「武器の供給と同様、援助もつづくだろうという私的保証はあったが、こっちはこっちで、いろいろと疑念があった。で、この方法をとれば、みんなが勝利者になり得る。アンダーソン大統領はだれよりも和平達成に近づいた人物となり、ソビエトは悪党であることが曝露され、われわれは好きなだけ米国の支持を得つづけられるという寸法だ。




p.505-506

もちろん、我らがチャーリー・マフィンは、モサドにコケにされたことが我慢ならない。彼は、イスラエルの企てを曝露しようとする。もちろんチャーリーの動機は「私怨」に他ならない。それがチャーリーの強味である。
ノヴィコフが終始抱いていたラトヴィアに対する祖国愛は、チャーリーにはない。スラーフェ・ナルブシーのように、虐げられたイスラム教徒という観念は、ない。ロシアの辺境アゼルバイジャン生まれのゼーニンのように国家の殺人機械になるべく「訓練」も受けていない。ダヴィッド・レーヴィのように「国家の存亡」を背負っているわけでは、ない。

CIAがこの件を真剣に受け止めているらしいことにチャーリーは気がついた。結構なことだ。
「彼は犠牲にされたんです。おたくの国務長官もね」
ドラマチックに聞こえるだろうか、と彼は思った。
ウィラードは外見上なんの反応もみせず、ちょっと間をおいただけで、やがていった。
「ご自分がおっしゃっていることの意味はおわかりですか」
「もちろん」
「証拠がありますか」
「充分ではありませんが」
「どの程度のものです?」
チャーリーはその問いには直接答えず、
「そちらではマスコミ操作ができますか」
「できます」
「それから連邦議会のなかに、理解のある議員はいますか」
「何人かは」
「それならば結構です」
チャーリーは答えて、ブリーフケースからイスラエル資料をとりだした。
「いずれ、これが必要になるでしょう。ノヴィコフ関連の資料も」


ワシントン・ポスト紙が一週間後に先頭をきって記事をのせた。その翌日には、ニューヨーク・タイムズと全米テレビ網のすべてが続いてとりあげ、上下両院から抗議の声が噴出した。




p.528-529

*1:訳注 第二次大戦中、ドイツ軍の攻勢に遭って、英国軍は北仏のダンケルクから撤退を余儀なくさせられたが、そのさいの不屈の闘志をさす言いまわし