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神崎繁『フーコー』 もう<自分>を探さなくていいんだよ



「シリーズ・哲学のエッセンス」の一冊、神崎繁フーコー 他のように考え、そして生きるために』(NHK出版)を購入。早速、帰宅電車の中で、パラパラと読んだ。
神崎繁氏は、とても刺激的な快作『プラトンと反遠近法』(新書館)の著者で、また、ジルベール・ロメイエ=デルベ著『ソフィスト列伝』(白水社文庫クセジュ)──こちらもまた刺激的だった──を訳している西洋古代哲学の専門家の方だ。

著者も「あとがき」で書いているように、フーコーの入門書・概説書の類はいろいろと出回っているので、この本では、これまでとちょっと異なった視点・視角からフーコー思想へのアプローチがなされている。したがって、いろいろな「フーコー本」を持っている人も、もう一冊コレクションしても良いと思う。刺激的な「フーコー本」の一冊になるはずだ。

僕がとくに刺激的に思えたのは、「デカルトにおける狂気と夢──フーコーデリダ論争」の部分。有名なわりには、あまり内容そのものが舞台に上がらないフーコーVSデリダというラウンドについてだ。

今どちらの(デカルトの)解釈が正しいかということは、さし当たって重要ではない。懐疑の過程で想定されている事態から、デカルトが思考する主体をどのようなものとして考えているかということを逆に推定する、その両者の違いが注目に値するのである。フーコーが思考する主体から狂気を除外したのに対して、デリダは懐疑の対象から言語の意味を除外した。実際、デカルトは、この懐疑の過程において、言語の意味を疑うことはなかった。そして、この点は「書くこと(エクリチュール)」をめぐって独自の哲学を展開するデリダの死角なのかもしれない。




p.72

ここから著者はベンヤミンの『ドイツ悲哀劇の根源』を参照し、さらに「『省察』のデカルト対『情念論』のデカルト」という刺激的な、そして奥行きのあるラウンドに焦点を当ててくれる。



ところで、どうでもいいのだが、この本の帯の文句がなかなか目を惹く。曰く「もう<自分>を探さなくていいんだよ」*1
なんだか、ロス・マクドナルドのハードボイルド/推理小説を思い出した。

「あれを愛といえるかどうか知りませんが、シティ・カレッジの同級の男の子に惚れていたようです。よくあるプラトニック・ラブですがね。今の若い学生はどうか分からないが、昔は優秀な学生にプラトニック・ラブはつきものだった。お互いに自分の詩や他人の詩を朗読し合ったりする、その程度のことです。その男の子とは寝なかったと、ヘレンは言ってました。わたしと逢ったとき、ヘレンが処女だったことはまちがいありません」
「その男の子の名前は?」
「さあ、おぼえていません。これぞまさしくフロイトのいわゆる抑圧のケースですな」




ロス・マクドナルド『さむけ』(小笠原豊樹 訳、ハヤカワ文庫)

そして最後に探偵リュウ・アーチャーが放つ──伝える──究極の名セリフ/究極の真実「あげるものはもうなんにもないんだよ、○○○○」

あー、ロス・マク読み返したくなった。


プラトンと反遠近法

プラトンと反遠近法

ソフィスト列伝 (文庫クセジュ)

ソフィスト列伝 (文庫クセジュ)

さむけ (ハヤカワ・ミステリ文庫 8-4)

さむけ (ハヤカワ・ミステリ文庫 8-4)

*1:もう「自分」を探さなくていいんだよ。構造主義脱構築ポストモダン……。さまざまな思想の意匠を脱ぎすてて、最後にフーコーが伝えたかったこと