HODGE'S PARROT

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平均律のヘゲモニー 狼を黙らせろ!




ピアノという楽器は1709年、メディチ家の楽器修理係だったバルトロメオ・クリストフォリが発明した。「クラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ」(弱い音も強い音も出せる「マルチな」鍵盤楽器)がそれである。

このピアノという楽器、オルガンやハープシコードとは決定的な違いがある。オルガンが空気を吹き入れる「管弦楽」、ハープシコードが弦をつま弾く「撥弦楽器」であるのに対し、ピアノは弦をハンマー状のもので叩いて音を出す「打弦楽器」なのだ。だから、強く叩けばデカイ音が出るし、弱く叩けば小さい音がする。この楽器が「ピアノ(フォルテ)」と呼ばれる所以である。




吉松隆「独断ismピアノ論、ソナタ風」(音楽之友社ピアノ曲読本』より)p,17

吉松氏によれば、「ピアノからフォルテまで出せる」ということは、「キーボード」にとって──コンピューターですら実現されていない──画期的な最終的進化形態なのだそうだ*1

なにしろ、指先で軽く触れるだけの数グラムという弱いタッチから、全体重をかけて叩き付ける数十キログラム(瞬間的には下手すると何トンになるかも……)という強いタッチまで、大きな振幅の入力に反応する。その差は単純に計算しても数万倍。タッチ・センサー付きの最新鋭のコンピューターでも、とてもここまでの入力信号のレベル差には対応できないしフォローもできない。




「独断ismピアノ論、ソナタ風」


もう一つ、ピアノというコンピューターを凌駕するタッチセンサーを持つ「機械」の特徴は、その調律法にある。平均律である。

1722年、「平均律クラヴィーア曲集」第一巻を作曲したJ.S.バッハは、この曲集を通じて、ある野心的な試みを世に押し出すことになった。1オクターヴを12の音に分割し、それぞれの音を主音とするすべての調性(長調=12、短調=12。合計24)を演奏可能たらしめた新たな簡便なシステムがそれである。




岩井宏之「作曲や鍵盤楽器を進化させた平均律が音楽を機械的にしてしまう落し穴 バッハの確立した12等分平均律は響きの良さよりも便利さを優先した」(音楽之友社『クラシック ディスク・ファイル』より)p.68

オクターヴを12等分した「等分平均律」は、純正律を<基準>にすれば、「濁った感じ」になる。協和音程と不協和音程が、純正律のように厳然と区別され難い。

12平均律は、純正律に比べると完全5度が少し狭くなっており、少し狭く調整されたこの5度を12回連続することにより、1オクターヴ内の12の各音が整えられる。この方式によれば、完全5度は純正に近い。しかし3度音程は純正律に比べてズレが大きい上、本来は異なるべき全音階的半音(たとえばホ音─ヘ音。ロ音─ハ音)と半音階的半音(たとえばハ音と嬰ハ音。ニ音と変ニ音)が、同じ音程とされてしまう。




「作曲や鍵盤楽器を進化させた平均律が音楽を機械的にしてしまう落し穴」

また、各5度を4分の1コンマずつ低く「調整」した調律法が中全音律と呼ばれ、これにより長3度は美しい響きを獲得する。しかし、

中全音律では、いわゆる異名同音関係の2音は高さが2コンマ程度も違うのであるから、as(変イ)に調律した鍵をgisの代わりにおさえたり、es鍵をdisの代わりにおさえたりすると、オルガンなら、狼が叫ぶのにも似た恐ろしい響きが生ずることになった。当時のオルガニストたちは、そうした2コンマのずれを「ヴォルフ(狼)」と呼んで恐れ、嫌っていたのであるが、なんとかしてそのヴォルフを黙らせる方法はないものだろうか、と考えることも忘れなかった。




『作曲家別名曲解説ライブラリー J・S・バッハ』(音楽之友社)p.232-233

そして今日一般に普及している平均律は、その「ヴォルフ」(狼)を「黙らせる」方法として考え出されたものなのである。

中全律のes─g─h─disの場合、そのdisはesの1オクターヴ上の音より2コンマ低いのであるが、そのdisを2コンマあげてesの1オクターヴと一致させ、その2コンマのずれをes-g、g-h、h-dis、という3つの長3度に分散させて目立たなくしようとして生まれたのが、平均律なのだからである。




『作曲家別名曲解説ライブラリー J・S・バッハ』p.233

かくして平均律は、「狼」を黙らせることができた。
そして岩井宏之氏のテクストにあるように、音響学的に「問題」のある平均律は、「清らかであるが不便」な純正律を、作曲および実用(演奏)において、圧倒するに到る。自在な転調(越境)を許し、鍵盤楽器(キーボード)という人間の10本の指だけで演奏するためには、「響きを幾分か犠牲」にしても、「音楽的利便性」を獲得する上で、合理的な判断に基づくものだ。
かくして平均律は、音楽のヘゲモニーを獲得する。したがって初等音楽教育は、平均律(12等分平均律)のピアノを<基準>にして行われる。
しかし、岩井宏之氏は、その「絶対平均律」による弊害も指摘する。ある日本人ヴァイオリニストがヨーロッパの音楽大学に留学したときのエピソード。その日本人ヴァイオリニストは、オーケストラでの演奏に際し、指揮者から「音程が違う」と注意される。しかし耳に絶対的な自信のあるヴァイオリニストは、自分の音は決して「間違っていない」と確信している。しかし他のメンバーと微妙にズレているのを知る。それは「導音」(音階の第7音)を弾くときに起こる。

彼は日本で教わった通り、12等分平均律に基づく正確さで、いつも同じ音程で導音を弾く。ところがヨーロッパ育ちのオーケストラの弦楽奏者たちは、導音がその機能を果たすべきとき(旋律線が上行する)には心持ち高目に弾き、そうでないとき(旋律線が下行する)には心ち低目に弾き分けていたのである。楽譜は、同じ高さを指示しているのにもかかわらず──。




「作曲や鍵盤楽器を進化させた平均律が音楽を機械的にしてしまう落し穴」

ピアノならば、同じ鍵盤(キー)を弾くので、そんなことは起こらない。しかし音高を奏者の「意志」で調節できる弦楽器においては、音楽に即して──「状況」によって──微妙な音高の調節が行われる。音楽的表現という「実践」においては、「絶対的な正確」(アブソルート・ピッチ)さを凌駕する。

そもそも、音がもたらす心理的印象の最も基本的なものには、音の高さ、大きさ、音色がある。これらを音の性質を決める音の三要素といい、音色とはいわば音の個性である。人の声や楽器音のほとんどは、基本周波数以外にも多くの周波数成分を含んでおり、音色はその各周波数成分がどう構成されるかによって決まる。

(中略)


たとえば、ピアノのA(ラ)=440ヘルツを叩くと、はじめはA(ラ)そのものの音が響くが、じっと耳をすますと、オクターブずつ高い音がいくつも聴こえてくることに気づく。これは440ヘルツの二倍の周波数をもつ880ヘルツ、第三倍音として1320ヘルツ、第四倍音として1760ヘルツなどの音を含んでいるためで、これらの周波数成分がどの程度のエネルギーを持っているかによって、ピアノらしさ、ピアノの音色をつくり、そのエネルギー量を表したものがスペクトルと呼ばれている。同じ高さのピアノとバイオリンとフルートの音色が異なるのは、周波数成分の周波数は同じでも、その量的な割合(スペクトルの形)が異なっているからである。




最相葉月絶対音感 ABSOLUTE PITCH』(小学館)p.106-107

「スペクトルの形」を、その固有の楽器の「らしさ」つまり「アイデンティティ」と置き換えることは可能ではないだろうか。

何であるかを知覚的にとらえるためには、それが可能として何でありえ、しかし現実には何でないかを、いわば一瞬の内に把握してみなければならない。つまり、可能性の空間を非主題的に意識する、ということが必要なのだ。狭義の相貌盲人に欠けているのは、この非主題化的な空間把握である。これは大きな障害だろうか。
再び数列との類比で語るなら、たとえばわれわれは、0、2、4、6、……という数列を、100以後が100、104、108、……と続いていくような相貌において知覚することができない。この点において、正常な人間はみないわば相貌盲なのである。「変化する場合にのみわれわれは相貌を意識する」(『心理学の哲学』1034節)のだから、相貌の転換を経験しない人は、そもそも自分が一つの相貌を知覚していることを意識できないのだ。




永井均ウィトゲンシュタイン入門』(ちくま新書)p.188-189


そういえば、日本のピアノ調律技術の高さを示す興味深いエピソードが、中村紘子によって紹介されていた。

私の尊敬する友人でポルトガルのピアニスト、ホセ・ド・セケイラ=コスタはあるとき思いがけないプレゼントをミケランジェリから受け取った。或る朝、リスボンの自宅の玄関のベルが鳴り、ドアを開けてみたら見知らぬ日本人が立っている。
「私は日本のヤマハピアノの技術者ですが、ミケランジェリ先生のご依頼により、あなたのピアノを調律にミラノからやって参りました」




中村紘子ピアニストという蛮族がいる』(文藝春秋)p.250

ヘゲモニーを握っているのは、「ズレを孕んだ」(それは均等に平等に分割をすることから生じる)側にいる者である。

しかし、すべてを吟味してみると、その一般的な帰結は、あの思想傾向全体の誇張された主張と対立することになる。脱構築は、その公式のニーチェ的機敏さでことにあたるにもかかわらず、つねに、かなり退屈な響きをもつ。それは、果てしなく繰り返される、予言過剰な戦略であり、だれでもつねに自分の言おうとしていることのまさしく反対を述べている、ということを主張しようとする小うるさい「証明」である。
脱構築は、その強迫的な還元主義に着目してみれば、かなりメランコリックな仕事──現代の陰惨な非科学──であることが判明する。




J・G・メルキオール『現代フランス思想とは何か』(財津理・荻原真 訳、河出書房新社)p.332

同じような考え方から、ハートとネグリは、出現しつつある非物質的労働のヘゲモニー的な役割にも同様の潜在力を見出した。今日では、非物質的労働が、19世紀の資本主義では巨大な産業的生産がその全体に基調を与える固有の特徴としてヘゲモニーを握っていたとマルクスが主張したのとまったく同じ意味で、「ヘゲモニーを握って」おり、またそうしたヘゲモニーは量的なそれではなく、まさに決定的で象徴的に構造的な役割を果たしている、と。

したがって、これは(保守的な批評家たちが私たちに信ずるように願っているように)民主主義に致命的な脅威を与えるどころか、「絶対的な民主主義」実現のためのまたとない好機を与えている、と彼らは言うのだ、なぜか?




スラヴォイ・ジジェク『身体なき器官』(長原豊 訳、河出書房新社)p.367

アカデミズムにおける反-本質主義多文化主義論が、オーストラリアの──とくにハワード保守政権における──公定多文化主義言説に「流用」されていった経緯。反-本質主義がネオ・リベラルな政治権力に流用され、エスニック・マイノリティの「ディスエンパワーメント」に利用される事態。

すなわち、この「個別化された普遍主義」とは、マイノリティのエスニシティを反-本質主義によって武装解除し無力化したうえで、既成のナショナルな権力関係に組み込もうとする主流派ナショナリズムを正当化するものに他ならない。

このようなエスニシティの「個人化」は、ハワード政権のネオリベラル路線における福祉国家多文化主義批判とも符号する。なぜなら、それは集団としてのエスニシティ脱構築することで、エスニック集団に対して行われる社会福祉への正当性をも侵食するのだが、こうした社会福祉の抑制とはじつのところ、社会構造のなかで従属的におかれた集団(非英語系移民および先住民族)への社会福祉の抑制に他ならないからである。




塩原良和『ネオ・リベラリズムの時代の多文化主義』(三元社)p.208


http://d.hatena.ne.jp/HODGE/20051116/p1

多文化主義的なアイデンティティ・ポリティックスを例に採って言えば──然り、宗教的、民族的、性的、文化的といった、叢生するさまざまな同一性(アイデンティティ)を有するマルチチュードは、旧びた「階級還元主義や本質主義」の亡霊に抗して、みずからの存在を主張する。しかし、多くの明敏な観測者たちがずいぶん以前に指摘したことだが、「階級」は、「階級、ジェンダー、人種」といった合い言葉のなかでも、最後までみずからの存在を執拗に訴え続けてきたが、適切に定式化されたことなど決してなかったのだ。そしてマルチチュードのそうした均質化の別なる事例は、資本それ自体である。
資本主義は、完全に独占的な資本が概念的に無意味だという意味で、原則的に(それ自体に措いて)多様性=マルチチュード(それ自体)だが、まさにそうしたものそれ自体としての資本は、その内部でその多数性=マルチチュードが叢生することができる唯一の領野としての普遍的媒体を必要としており、またその媒体とは、契約に敬意が払われその違犯が懲罰の対象となるなどといった、法的に制御された市場に他ならない。




『身体なき器官』p.370

ミネルヴァの梟は日暮れに飛び始める、というヘーゲルの命題を精神の歴史において裏書きしているのは、思想がある種の概念に集中し始めるときには、すでにそれらの概念──世間の言いぐさを借りると──いかがわしくなっているのが常である、という事実だ。
つまりそのときには、概念が表しているものと概念そのものにずれを生じてしまっているのであり、そうした概念は消滅すべく運命づけられているように見えるのである。そうなると、そこにとりついた思念は浮かぬ気持ちをいやが上にも引き立てて、その種の概念を救い出そうと熱中するものだ。




テオドール・アドルノ『不協和音』(三光長治・高辻知義 訳、平凡社ライブラリー)p.225

狼(ヴォルフ)を黙らせたのは、平均律という「虚偽意識」(イデオロギー)に他ならない。

ヘーゲルを「超えること」は、ヘーゲル的な意味での「止揚 Aufhebung」すなわちヘーゲルにふくまれている真理の陳述では全然ない。それはヘーゲル的な真理をめざしての誤りの超越ではない。反対に、それは現実をめざしての幻想の超越であり、さらに適切には、現実をめざしての幻想の「超越」であるよりはむしろ、幻想の一掃であり、一掃された幻想からの現実をめざすうしろ向きの回帰である。




ルイ・アルチュセールマルクスのために』(河野健二・田村俶・西川長夫 訳、平凡社ライブラリー)p.119-120


バッハ:平均律クラヴィーア曲集

バッハ:平均律クラヴィーア曲集

*1:この本の出版は1996年