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マーサ・ヌスバウム『女性と人間開発』

私の目的は、人間の尊厳を守るために最低限必要なものとして、すべての国の政府が尊重すべき基本原理を支える哲学を提供することである。この「基本的な社会的最低限」を考えるための最善のアプローチは、人間の尊厳に値する生活とは何かについての直感に基づいて、「人間のケイパビリティ」(すなわち、人は実際に何ができるか、どのような状態になりうるか)に焦点を合わせるアプローチである。



p.5

マーサ C. ヌスバウムの『女性と人間開発 潜在能力アプローチ』(岩波書店)を読み始めた。

女性と人間開発 潜在能力アプローチ

女性と人間開発 潜在能力アプローチ

ヌスバウムは「ケイパビリティ」という概念を提出する。ケイパビリティとは「潜在能力」とも訳されるものであり、経済学者アマルティア・センがこの概念を生み出した。本書は、センの経済学的考察と、ヌスバウムの哲学的(アリストテレス)研究が融合した「フェミニズム理論」である。

潜在能力とは何か。それに答えるために、まず「貧困とは何か」という問いを考えてみよう。普通なら、貧困とは低所得のことであり、ある人の所得を調べれば、その人が貧困かどうかが分かると考えるだろう。
しかし、本当にそうなのか。ある人はハンディキャップを負っているために、普通の生活をするために他の人よりも多くの所得を必要とするかもしれない。ある人は、差別によって所得があっても最低限の生活さえ送ることができないかもしれない。人々の置かれた状況の多様性を考えると、貧困を測るために所得は極めて不確かな指標でしかない。
同様に、どれだけの財を持っているかで豊かさを測ろうとするやり方も同じ欠点を持っている。
それでは、効用はどうか。経済学では人々は効用を最大化するように行動すると考える。効用とは、満足感であり、幸福感である。しかし、満足していることや幸福であることが、その人の置かれた状況を正しく示すわけではない。抑圧された生活を送っていても、その状況を諦めて受けれてしまえば、それでも幸福を感じるかもしれない。効用は状況に適用してしまうために、やはり不確かな指標でしかない。




「訳者のあとがき」より p.363

ケイパビリティは幸福を指すものではなく、幸福を追求するものでもない。効用でもない。所得でもない。財でもない。「ケイパビリティは所得と効用の間にあって、ある人が何をできるのかを表すものである。

何ができるか(doing)、どんな状態になれるか(being)によってその人の生活の状況を評価しようとするものである。何ができるか、どんな状態になれるか、は選択肢の幅を示すだけであり、実際には、その中から選択が行われ、現実の生活の内容(実現された機能)が決まる。
ケイパビリティは、前者を示すものであり、実際には選択されない選択肢を含む。だから「潜在的」なのである。同時に、それはある人がどんな生き方をすることができるかという自由も表すことになる。自由を重視するなら、実現された結果(機能)を見るのではなく、ケイパビリティを見なければならない。




「訳者のあとがき」より p.363-364

まだ第一章の途中であるが、とても重要なアプローチがなされているように思える。とくに「人権」とケイパビリティの問題について。

実際、私はケイパビリティ・アプローチを人権アプローチの一種だと考えている。私のアプローチは、国家には市民に対して最低限のケイパビリティを保証する責任があるという点で、ある種のタイプの人権アプローチとも異なっている。私のアプローチでは「消極的自由」、すなわち、国家は何もしなければすべてうまくいくというような考え方を取らない。




「日本語版への序文」より

じっくり読んでいきたい。