HODGE'S PARROT

はてなダイアリーから移行しました。まだ未整理中。

世論とは人々の感情である

細谷雄一小泉首相は外交哲学を語れ」(朝日新聞社論座』2006年1月号)に、ウォルター・リップマンが言及されていたのを思い出した。
この細谷氏の論説は、小泉首相が「外交」を軽視しているのではないか、という危惧を表明したもので、小泉政権が「外交の休息」から目を覚まし、日本が置かれている孤立的な状況──とくに靖国問題における十分な外交的手続きを欠いたこと──を直視し、国益に適う積極的な外交活動を「再開」するよう提案するものだ。

この論説で興味を惹いたのが、「現代では外交が世論に左右されやすくなっており、ポピュリズムナショナリズムが巨大な影響を及ぼしていることである」という指摘。
問題とされるのは、「世論」(public opinion)なのである。

ヘンリー・キッシンジャーは、「動揺する指導者達は、世論との関係に手を煩わせて、進むべき方向を判断する能力を犠牲にしてしまう傾向がある」と警告を発した。
今から1世紀以上も前、イギリス保守党の老獪で狡猾な首相であったベンジャミン・ディズレーリは、次のように喝破していた。
「われわれが世論(public opinion)と呼んでいるものは、一般的に、人々の感情(public sentiment)であるにすぎない」

一時的な「世論」=「国民の感情」に支配されることは、避けるべきである。それは、長期的な観点に立てば、国益に反するものだからである。
そしてリップマンの警告。

「大衆の意見は、勢力を増している。しかしそれは、死活的な利害に関係する問題に直面したとき、決定を左右する危険な支配者になってしまうことが、明らかになったのだ」

細谷氏は、ナショナリズム自体を否定することは有益な議論ではない、必要なのは、ナショナリズムの危険性を理解することだ、と述べる。ナショナリズムは対外行動において、攻撃性、膨張性、敵対性と結びつく。とくに警戒すべきなのが、過激にナショナリズムを煽ること、それによって形成される世論=感情である。

過激なナショナリズムが、冷静なレアルポリティークを進める上でいかに害悪となるか、ビスマルクはよく理解していた。むしろ彼は膨張主義的な国内世論を封じ込めて、穏健な外交を進めることで、統一間もないドイツの国益と安全を確保しようと試みた。またボーア戦争で行き詰った後のイギリス政府は、ジンゴイズムと呼ばれる強烈なナショナリズムに突き動かされる世論を封じ込めて、ドイツに対して、アメリカに対して、そしてさらにはフランスに対して、妥協的な政策を推し進めることになる。彼らはナショナリズムを否定したのではない。それをある程度利用しながらも、暴発することを防ぎ、抑制したのである。

過剰で過激なナショナリズムは外交を麻痺させ、したがって、国益を損なう。ここで提示される至上価値は「国益」である。正義や公正ではない。国益を損なうことが悪なのである──もっとも、国益それ自体は、ここでは明確に定義されてはいないし、され難いものでもあるだろう。
細谷雄一氏は、東アジアで冷戦の残滓を取り除き、長期的な平和の基礎をつくる作業こそが、日本の長期的な「国益」だと論じる。