HODGE'S PARROT

はてなダイアリーから移行しました。まだ未整理中。

私的ブログとコントラバス

以前コントラバス関係のエントリーを書いたとき、他にも触れておきたい話題があった。コントラバス奏者で作曲家でもあるエドガー・メイヤー(Edgar Meyer、b 1960)についてである。
しかし、エドガー・メイヤーについて「触れておきたいと(そのとき)思った内容」が、どこに書いてあったのものか、すっかり失念していた。
レコード芸術』の記事? だったら、いつのどの号だろう……さあ、探すのが大変だ!
それともCDの解説か? CDラックは、始めこそ、レーベル別に整理していたが(specific identification method)、最近では、後入先出法(last-in, first-out method)なので、最近購入したCDの場所しか把握していない。メイヤーのCDはどこへいった?

払出(消費)数量を把握する方法には、継続記録法と定期棚卸法の二つがある。継続記録法とは、棚卸資産の受入れおよび払出しを帳簿に記録して、つねに残高を帳簿上で把握する方法である。したがって、継続記録法のもとでは、以下のように払出原価が計算されることになる。

  • 払出数量=期首棚卸数量+当期受入数量−期末帳簿棚卸数量


定期棚卸法とは、期首実地棚卸数量と期中の受入数量だけを記録しておき、期末に実地棚卸を通じて期末数量を把握し、間接的に払出原価を計算する方法である。したがって、定期棚卸法のもとでは、以下のように払出原価が計算される。

  • 払出数量=期首棚卸数量+当期受入数量−期末実地棚卸数量




宇南山英夫『現代 財務会計論(改訂版)』(東京経済情報出版)p.56


で、今日、タワーレコードの『muse'e』(ミュゼ)のバックナンバーをめくっていたら、「そのとき書きたかった内容についての記事」を偶然見つけた。エドガー・メイヤーのCDも探し出した。
で、思った。これまで僕は、買った本やCD,読んだ本や印象に残った記事を「単に記録」するのは、あまりにも「私的な行為」なので「私の美学に反する」と考えていた。何かしら意見なり主張なりがあったほうが「ブログの本質」なのではないかと。
が、後で、あるエントリーに関するリニアーな内容/記事を探し出す苦労や、それを思い出せない「気持ち悪さ」を考えたら、「単純な記録」も私にとっては決して悪くはない。私にとってだけに意義があること──たとえ他の人たちに何の意味もなくても──私だけが理解できる「記録」も、私にとって特別であることには議論を待たない。

人間は自分自身を励まし、自分自身に対して命令し、服従し、非難し、罰し、問いを立て、それに答えることができる。そこで、全く独りごとしか言わない人間を想像することもできるであろう。その人間の活動にはいつも独りごとが付いて廻る。




ウィトゲンシュタイン哲学探究』1部243節(黒田亘 編『ウィトゲンシュタイン・セレクション』より、平凡社、p.215)

そしてこの「はてなダイアリー」は全文検索ができるので、それを使わない手はない──しかもできるだけ詳細な情報を記しておくことは後々役に立つ。

クモが自らの糸で巣を織りなしてゆくように、我々人間は言葉を紡ぎながら人生という織物を織りなしてゆく。それは無秩序な模様を持った織物である。その中で繰り返し繰り返し生じる生の「型」、つまり人生の様々な典型的な場面・典型的な言語使用局面が「言語ゲーム/劇」と呼ばれるのである。人間が言葉を習得し、使用するとは、こうした型を一つずつマスターし、自らの言葉によってそうした型を編み続けてゆくことである。
このように我々は言葉を介して人生を編み上げてゆく。それゆえ人という生き物において、生きることと話すことは不可分であり、我々は話すことによって、話すことにおいて、生きるのである。この意味で言語と生は不可分である。




鬼界彰夫ウィトゲンシュタインはこう考えた―哲学的思考の全軌跡1912‐1951』(講談社現代新書)p.255



muse'e』のエドガ・メイヤーの記事は、メイヤー&ヴァイオリニストのマーク・オコーナーとのインタビューである。メイヤーとオコーナーは、チェリストヨーヨー・マと組んで<アパラチナン・プロジェクト>を結成、『アパラチナ・ワルツ』(Appalachia Waltz)というアルバムを出した。

<アパラチアン・プロジェクト>は、”アメリカ音楽の揺り篭”とも呼ぶべきアメリカ東部のアパラチア地方(ヴァージニア、ウエスト・ヴァージニア、ケンタッキー、テネシー、ノース&サウス・キャロライナの各州にまたがった山岳地帯)のフォーク・ミュージックのカヴァーや、それをモティーフにオコーナーやメイヤーが作ったオリジナル曲を通じて、アメリカ音楽の混血性を検証するというもの。




松山晋也「生きたアメリカン・ミュージックの本質  マーク・オコーナー&エドガー・メイヤー インタビュー」(『muse'e』vol.26 "blue in green" p.07)

この『muse'e』の記事によると、96年のアルバム『アパラチナ・ワルツ』はビルボードで23週もクラシック・チャートの首位を記録したヒットになったそうだ。その理由として、ヨーヨー・マという人気アーティストのネイム・ヴァリューもあるが、なにより<アパラチナン・プロジェクト>の発想の新鮮さや音楽そのものの豊かさが受けたのではないか、と。
そしてアイリッシュケルト・ムーブメントも見逃せない。アパラチアン・ミュージックは「アメリカ大陸で変容していったケルト音楽の第一段階」に他ならないからだ。

アパラチア地方には、主にイギリス、スコットランドアイルランドからの移民たちが、農民や炭鉱労働者として住みついたが、山々に囲まれた地理的環境のせいもあり、そこに持ち込まれた伝統音楽などの民族文化は、近親相姦的混交を繰り返しながら、濃密さを増していった。
そしてこの濃縮液の如きアパラチアン・ケルト・ミュージックは、やがて鉄道やラジオやレコードなどの文明の機器によって、山の向こうへと伝えられ、ユダヤ人の音楽や黒人の音楽などとも激しい混交を繰り返し、20世紀のアメリカン・ミュージック……カントリー、ブルーグラス、ジャズ、ロック等々を形成していったわけだ。




松山晋也「生きたアメリカン・ミュージックの本質」

アパラチア・ワルツ

アパラチア・ワルツ



また、エドガー・メイヤーとネッド・ローレム(Ned Rorem、b 1923)が、エマーソン弦楽四重奏団のために作曲した作品(弦楽四重奏ダブルベースのための五重奏曲、弦楽四重奏曲第4番)のCDについて、以前書いたものをこちらにも転載しておきたい。

String Quartet 4

String Quartet 4

  • アーティスト:Emerson Qt
  • 発売日: 1998/04/14
  • メディア: CD

Edgar Meyer "Quintet for string quartet and double bass"(1995), Ned Rorem "String Quartet No.4(1994)"




アメリカを代表する弦楽四重奏団、エマーソン弦楽四重奏団は1976年に結成された。1976年といえばアメリカ建国200年という記念すべき年(オリヴィエ・メシアンの『峡谷から星たちへ』はそれを祝うために作曲された)。そして「エマーソン」とはアメリカ文学の父と呼ばれるラルフ・ウォールド・エマーソン(Ralph Waldo Emerson)に由来している。エマーソン弦楽四重奏団はまさにアメリカを代表している。


そのエマーソンSQがアメリカの二人の作曲家の近作を録音した。コントラバス奏者としても有名な若手作曲家エドガー・メイヤーの弦楽五重奏曲と1923年生まれの長老作曲家ネッド・ローレムの弦楽四重奏曲第4番。2曲ともエマーソンSQのために作曲され、初演された。


エドガー・メイヤーの五重奏曲は、いわゆる「現代音楽」らしくない楽しい音楽。ドヴォルザーク風というかカントリー風というか、メロディックでリズミックでほとんどポップスのよう。晦渋さは微塵もない。ここでは、作曲者本人もコントラバス奏者として演奏に加わっている。
まあ確かに聴きやすくて馴染みやすい音楽であるけれども、そのために、ちょっともの足りなさも、個人的に感じてしまう。


一方、ネッド・ローレムの方は、ニヤリとさせられるくらい気に入った。暴力的なまでの鋭く激しいリズム、威圧的とも言える密度の高い音の重圧感──空間を切り裂き破壊しながら侵入してくるサウンド、そして複雑な構成。
例えば一楽章の指示は「とても速く、醜く(ugly)容赦なく(relentless)、執拗に(insistent)、Cajoling(カシドリのようにべちゃくちゃしゃべる?)、弁解(pleading)、逆上して(frantic) 」なんていう<多数の>刺激的な言葉が連なれている。やっぱりバルトークショスタコーヴィッチ後のカルテットはこうじゃなくっちゃね、と思わせるゴキゲンさだ。


この曲の特徴は、10楽章からなる楽章がそれぞれピカソの絵画からインスピレーションを得て作られた、ということだ。このモダニズム溢れる強烈な音楽は、まさしくピカソの強烈な絵画と響きあう。
そうか、ローレムの音楽は「モダン」なんだ。とすれば、メイヤーのポップスみたいな音楽は「ポストモダン」と言えるかもしれない(年齢的にもそうだろう)。
ただ僕は「モダン」な方が断然好きだ。

このときは、メイヤーの五重奏曲に関して、ちょっと否定的なことを書いたが──メイヤーがそうだというわけではないが、しかし今でも「非モダンに固執する」ことの「政治性」にはウンザリする──今改めて聴くと、その「ハイブリット性」はなかなか魅力的だ。メロディも美しいし。しかも性格の異なる四つの楽章それぞれに、どこか憂愁が感じられる。むろんコントラバスは、シューベルトの『鱒』のように、ヒロイックに活躍する。