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エティックとイーミック

矢向正人『音楽と美の言語ゲーム  ヴィトゲンシュタインから音楽の一般理論へ』(勁草書房)を読んでいる。面白い──というか、これ、個人的に最強の音楽理論書になりそう。バイバイ、アドルノ

で、この本は、副題にあるようにウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」論を援用しながら、音楽美学について記述していく。スタイルも『論理哲学論考』のような整然とした章立てだ。

ヴィトゲンシュタインによると、美的なるものの評価が是認というかたちで遂行されるような言語ゲームが存在する。是認は、美的なものの検証(真理化)でなく、単に説得(正当化)として行為される。この説得のためのゲームには、通常の言語は不適切である。身振りこそがそれを可能にする。芸術を<正しい><規則にかなっている>と言う場合にも、是認の身振りが行為されていると考える。


すなわち、美の言語ゲームは、純粋に言語的というよりは、言語に伴われる身体的な諸条件をも含めた表現=身振りである。ヴィトゲンシュタインは、この表現=身振りを「是認の身振り」と呼び、それを美と芸術の言語ゲームとしてとりあげている。



2-2  美の言語ゲームと是認の身振り p.80-81


まだ途中なのだが、音楽の「美的機能」と「社会機能」について、興味深い概念が紹介されているので、ちょっとメモしておきたい。それは、音楽学者=観測者(記述者)の位置に考慮した議論で採用される、民俗音楽学における「エティック」(etic)と「イーミック」(emic)というもの。

エティックとは、文化の外部から客観的に比較する態度である。一方、イーミックとは、文化に属し音楽という行為に関わる当事者がとる態度である。イーミックによると、その文化に属さない人間がある程度その音楽を認識したとしても、その文化で生まれ育った人間の認識に至ることはない。エティックに対するイーミックの議論は、観測者の位置を主題化している点で、社会的機能に対する美的機能と同型のロジックとなる。なお、イーミックによる音楽機能の記述は意図されていないものの、美に代わる音楽認識の前提が探し求められている点を見逃すことができない。



0-2-5 美的機能と社会的機能 p.31-32

また、ある音楽現象を取り上げて、どこまでが美的機能のはたらきで、どこまでが社会的機能のはたらきであるかを分離することは難しい。美的価値は「認識」の問題でもあるからだ。

例えば、「この和音の響きはなぜ美しいか」と問われる。「協和音程をもっているから」と答える。では、なぜ協和音程が美しいのかと問われたとき、「それは美しい音程だから」と答えたとする。この対話で、説明されるべき美という対象は、その説明の枠組みから明確に分離されていない。論点先取、トートロジーになり、「美」そのものは規定されないままである。



0-2-6 美の記述形式 p.32

したがって、音楽という「美的体験」について論じるべきことは──記述されるべきなのは、「この音楽は美的である」という発言において、その発言を「信じること」の仕組み、人々に美を「信じさせている」ところの「形式」や「規範」である。

ともあれ、ここで、美は、実体的なものではなく、ある音楽が作られ、演奏され、聴かれたときに、そこにはたらく「効果」として想定できるにすぎないという観点が浮びあがってくる。



0-2-6 美の記述形式 p.34

音楽と美の言語ゲーム―ヴィトゲンシュタインから音楽の一般理論へ

音楽と美の言語ゲーム―ヴィトゲンシュタインから音楽の一般理論へ