TransNews の alfayoko さんに教えてもらった、とても「うん、いい話だ」のコントラバス関係の記事。
- オーケストラの「縁の下」も華やかに──増えるコントラバス奏者/低音の魅力にひかれ [日経ネット関西版]
「最も低い音を受け持つので、オーケストラ全体を見てテンポや雰囲気など音楽の輪郭をつくっていくことができる」と岩下さん。「コントラバスはこっそりと楽しめる楽器。バイオリンのように旋律を弾くことはあまりないが、少ない音符にどう色付けしていくかが工夫のしどころ」と話す。渡戸さんも「ほんわかと柔らかく、心に響くような低音が魅力」という。
この記事を読んで──そして前エントリーで紹介したCDがちょうどシューベルトの『ます』だったので──思い出したのが、『香水―ある人殺しの物語』で有名なパトリック・ジュースキント(パトリック・ズュースキント、Patrick Süskind)の『コントラバス』だ。
- 作者: パトリックズュースキント,池田信雄,山本直幸
- 出版社/メーカー: 同学社
- 発売日: 1988/11
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The Double-Bass (Bloomsbury Classics)
- 作者: Patrick Suskind,Michael Hofmann
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このズュースキント『コントラバス』はとても気に入っている作品なので、以前書いた感想をここにも──微妙な訂正をして──載せておきたい。
●パトリック・ズュースキント『コントラバス』(池田信雄・山本直幸 訳、同学社)
『香水』で有名なパトリック・ズュースキントのデビュー作品。一人芝居用の台本として1980年に書かれ、1981年ミュンヘンのキュヴィエ劇場で初演。成功を収めたそうだ。
ストーリーはうだつのあがらないコントラバス奏者の愚痴にも似たモノローグ。オーケストラの中でいつも「縁の下の力持ち」だけで終わってしまう男性コントラバス奏者の悲哀、それをユーモアとペーソスで包み、なんとも言えない雰囲気に満たされている。「感動」というとちょっと大袈裟になってしまうけど、それに近い味わいがする。最後の方ではなんだかジーンときた。うん、いい話だ。
まずコントラバスのオーケストラ中での「虐げられた」状況から。コントラバスにはヴァイオリンやフルートのように綺麗な旋律はまず回ってこない。トランペットやティンパニ奏者のような英雄的な場面もない。何より(ソロ)コントラバスの音楽──有名な作曲者が書いた──はほとんどないのだ。
なぜって、まともな作曲家がコントラバスのために曲なんか書くもんですか。もし書いたとしても、それはたちの悪い冗談からですよ。モーツァルトに小さなメヌエットがありますよね。ケッヘル番号344のやつ。あれなんか滅茶苦茶ふざけてるじゃないですか。
サン・サーンスの『動物の謝肉祭』の中の『象』にしたってそうです。コントラバス独奏が、アレグレット・ポンポーソで一分半つづくんですけど、笑い死にするんじゃないかと思いますよ。
かと思うとリヒャルト・シュトラウスのオペラ『サロメ』の中で、サロメが井戸の中を覗いている場面にあらわれる五小節のコントラバス・パッセージみたいなやつ。サロメが、「この下はなんて暗いんでしょう! こんな暗い穴の中に閉じ込められるなんて、どんなに恐ろしいことでしょう。まるで墓穴のようね……」と歌うくだり。ほんとうにゾーっときます。
─ p.58
そして彼、コントラバス奏者の身の上話になる。彼は演奏会で共演しているソプラノ歌手に恋をしている。しかし、彼女は地味なコントラバス奏者なんか目もくれない。彼はイジケル。だからいろいろ省察してみる。彼女のこと。自分が所属している国立管弦楽団のこと。音楽のこと。作曲家のこと。ドイツのこと。ナチス時代のこと。そして自分のこと……。
ナチズムと音楽──ま、フルトヴェングラーの書いたものを読んだら分かると思いますが──ナチズムと音楽は、絶対に相いれるもんじゃないんです。絶対に。
もちろん、あの当時だって音楽はやられてましたよね。当たり前のことです。音楽が中断するなんてことはありえないんですから。たとえば、われらのカール・ベームはまさに油の乗り切った年齢だったし、あるいはカラヤン。フランス人たちは、占領下のパリでカラヤンに喝采を送りましたよ。
その一方で、ぼくの知るかぎりじゃ、強制収容所の囚人たちも、自分たちのオケを持っていたというじゃないですか。その少し後では、連合軍の捕虜収容所のわがドイツ人たちも。なんていったって音楽というのは、人間的なもんですからね。政治とか現代史の彼方にある、普遍的、人間的ななにか、あえていわせてもらうと、人間の魂と精神を構成する先天的な要素なんですよ。
音楽はいつの時代にも、どこにでも存在しつづけるでしょう。なぜって、音楽は形而上的なものだからです。いいですか、形而上的ってことは、つまり純粋に物理的なものの背後ないし彼岸、いいかえるなら時間や歴史や政治や貧富や生と死の彼岸に存在するということです。
音楽は──永遠なんです。
─ p.67-68
彼は国立管弦楽団に所属している。身分は公務員だ。華麗なるソリストや演出家、指揮者とは違うけど、とりあえず(安月給であるが)給料はもらえる。失業は心配ない。でも、そういった一見安定した「保証ある生活」にひどく不安を覚える。自由がない。夢を失っていまうのでは、と。
夢。コントラバス奏者にとって「憧れの音楽」が一曲ある。たった一曲だ。有名な作曲家が書いた名曲中の名曲。コントラバスの美しい旋律がある曲。
シューベルトの五重奏曲『鱒』。
その曲をいつか弾きたい、と夢をみながらも、彼はまた平凡で地味な「仕事」へと向かう。
シューベルトはぼくとおない年のとき、死んでからもう三年もたってました。
さて、七時半に始まるから、ほんとにそろそろ行かなくちゃ。もう一枚レコードをお聞かせします。ピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロとコントラバスのための五重奏曲、イ長調。一八一九年。シュタイアの鉱山監督に頼まれて、二十二歳のシューベルトが書いたものです……
……さて、行ってきます。オペラ座に行って、叫んできます。ま、できたらの話ですがね。もしぼくが思いきってやったら、明日の新聞に載りますから見てください。
じゃ、さようなら!
─ p.105-107