HODGE'S PARROT

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存在は不生不滅、不変不動、超時間であること




古代哲人による議論と言えば、パルメニデスのロジックが面白い。が、プラトンの『パルメニデス』を引くのは難儀なので、岩田靖夫の名著『ヨーロッパ思想入門』(岩波ジュニア新書)から。

ヨーロッパ思想入門 (岩波ジュニア新書)

ヨーロッパ思想入門 (岩波ジュニア新書)


パルメニデスは「あるか、もしくは、あらぬか」という二者択一において、「あらぬ」という前提は、あらぬのであるから、前提自身が前提自身の成立を否定していると看破する。ギリシア語で「あらぬことを語る」とは「ナンセンスなことを言う」という意味であり、「無」に関する発言はすべてナンセンスなのである。

それならば、二者択一の残る項は「ある」であるが、この「ある」は単に論理的な前提として立てられているのではなく、絶対の所与として立てられていると言ってよい。この「ある」について、パルメニデスはその誕生を求めてはならぬと厳命している。


なぜか。

まず、「ある」が「あらぬ」(無)から生じたと考えることはできない。なぜなら、いましがた述べたように、「あらぬ」はあらぬのであって、語ることも考えることもできぬ非実在、無意味、虚妄だからである。
では、「ある」は「ある」から生じたと考えうるか。否。なぜなら、そのときには、生じた「ある」は「あるでなかった」という自己矛盾が生ずるからである。



p.49

同様に、「ある」に生成はありえないが、滅亡もありえない。ただひたすらに「ある」だけであり、存在にとっては、過去も未来も意味をなさない──時間が意味をなさない。

それゆえにまた、「ある」には程度の差がありえない。なぜなら、もし程度の差があれば、或る「ある」は別の「ある」ほどには「あらない」ことになり、結局は「あり、かつ、あらない」という同じ自己矛盾が生ずるからである。こうして、「あるはあまねく同じ程度にある」。
このことを物体的に表現すれば、「存在はいたるところで等質であり、分割できず、連続している」ということになる。すなわち「ある」は不可分の連続体として、単一である、すべてであり、充ち充ちている。空虚なるものは存在しえない。



p.50


また、パルメニデスについては、井上忠氏による文章も引用しておきたい。

ギリシアの話だけではない。イエスの十字架においても、<こころ>言語*1の完結自閉の中で転々としているかぎり、そこに<こころ>言語風の完結を物語らなければならなかったし、「信じ」なければならなかった。表の脈絡にあるかぎり、十字架は未完結の明々白々な表示なのに、妙な神話を<こころ>まかせに創作するものだから、話がそれるのである(芥川の『西方の人』の結末がヒリヒリとひとの心を刺し、真実の露呈めいて響くのもまたそのゆえであろう)。


十字架が未完結であればこそ、われわれは「キリストのまなび」という<もの>まねびではなく、かの人の十字架が挫折した現場から、イエスとともに十字架を担いでゆかねばなならぬのである。それは不可測の深淵に逆巻く飄風に抗して毅然と屹立したパルメニデスの偉業をなげうつとともに、イエスの十字架もまた他人事ではなく、ともにあの深淵の謎に立ち向かうことを促してやまない。
ギリシアの源泉を真に窺うためには、「ギリシア」も「哲学」も破却して歩むしかない。真理はわれらとともにいまここにこそである。



井上忠「パルメニデス、飄風に立つ」(『現代思想』1999年8月号)

*1:<こころ>言語とは<わたし>が設定する言語であり、cogito, Ich denke, je pense などを結局の支点とする言語である