ネオ・リベラリズムの時代の多文化主義―オーストラリアン・マルチカルチュラリズムの変容
- 作者: 塩原良和
- 出版社/メーカー: 三元社
- 発売日: 2005/11/01
- メディア: 単行本
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まだ序章しか読んでいないのだが、塩原良和『ネオ・リベラリズムの時代の多文化主義』(三元社)は、今年のベスト本になりそうな予感。まず帯の文を引用したい。
ネオ・リベラリズムという時代のなかで、多文化主義という理念をいかに<再構築>するのか。反-本質主義的多文化主義は、なぜ、エスニック・マイノリティのエンパワーメントを阻害する「意図せざる帰結」をもたらしたのか。70年代以降、白豪主義からマルチカルチュラリズムに政策転換してきたオーストラリアを事例に明らかにする。
提起される問題は、マイノリティのエンパワーメントの「実践」の多くは、マイノリティの人々が自らのエスニシティを「本質主義的」に構築して動員することをその前提としているにもかかわらず、
そして「意図せざる帰結」とはこういうことだ。
「反-本質主義」による「集団」としてのエスニシティの本質性の否定(アイデンディティ・ポリティックス批判)は、集団としてのエスニシティを解体し、「個人化」する。つまり、彼・彼女は個人としては多文化的であるのだが、構造的不平等の是正や社会福祉政策を「(エスニック)集団」として要求する権利をもてなくなる。
そして「個人化」された文化的に多様な人々は、個々の市民としてオーストラリア国民国家へと「包摂」される。もともとは「リベラル・左派」知識人によって提唱された反-本質主義であったのに、しかし「個人化」が多文化主義の「ナショナリズム化」に「包摂」されてしまうのだ。
ここに反-本質主義とネオ・リベラリズムの「共犯関係」が成立してしまう──意図に反して。
その結果、その主張者の意図がどうあれ、「国民パラダイム」*1の主張はネオ・リベラリズムによる福祉国家的多文化主義政策の削減と親和性をもってしまう。つまり「国民パラダイム」は、エスニックな集団的カテゴリーを脱構築する必要性を強調するため、そうしたエスニック集団への特別な施策の正当性を結果的に弱めるように働いてしまうのである。
たとえば、『ポストエスニック・アメリカ』*2の初版が出版された1995年以後、カリフォルニア州でアファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)が実質的に廃止される事態が発生した。そのためホリンガーは、2000年に書かれた『ポストエスニック・アメリカ』の追記で、自らの主張がアファーマティブ・アクションの廃止を正当化するものではないことを協調する必要に迫られた。しかしホリンガーは、アファーマティブ・アクションを「人が平等に扱われる社会を実現するための例外的、一時的な便法」という、きわめて不完全なかたちでしか正当化し得なかった。
p.28-29
また、ポストコロニズムを採用した議論は、既存の国民統合の枠組そのものを差別や不平等に基づくものとして「解体」することをめざすのだが、ここにも、「理論的な正しさ」と表裏一体のネオ・リベラリズムとの「共犯関係」が発現してしまう──提唱者の意図に反して。
ポストコロニアリズムにおける「反-本質主義」は、支配-従属関係を隠微・温存する「支配的言説としての多文化主義」として、「本質主義的」マイノリティ・ポリティックスを批判する。
そのうえで、ポストコロニアリズム的多文化主義論は、エスニック・マイノリティをナショナリズムに抵抗する越境的行為主体として立ちあげなおす。たとえばホミ・バーバは、マイノリティ文化とはその立場上「文化の中間者(culture's inbetween)」としての部分的文化にならざるを得ないと主張し、「ハイブリット(hybrid)」という戦略を提起する。
ハイブリッドという戦略ないし言説は、権力は非対称であるがその接合は多義的であるような交渉の空間を立ち上げる。そのような交渉は同化でも協調でもない。それは社会的対立をもたらす二項対立的表象を拒否するような「裂け目に位置する(interstitial)」行為主体(agency)を生みだす可能性をもたらす。ハイブリッドな行為主体は文化的優越性や文化的主権を追及しないような弁証法のなかで発話するのである。[Bhabha 1998:34]
p.29
しかし、その「越境的行為主体」や「ハイブリット性」というナショナルを「超える」トランスナショナル性は、その「意図」に反して、どのような「帰結」をもたらしたのか/もたらす危険性があるのか?
このようなポストコロニアリズム的文化主義論は、一見するとネオ・リベラリズムとは無縁に思える。にもかかわらず、そうした議論が明確に肯定している反-本質主義が、ここでも問題を引き起こす。
反-本質主義の論理は、人々をネイションのみならず、かつて属していた集団としてのエスニシティからも解放された個人として描き出す。こうして「個人化」された人々が、あくまでも、自己の責任において越境的実践を行うことが想定されている点において、ポストコロニアルな多文化主義はネオ・リベラリズムによる多文化主義の「個人化」と奇妙に一致する。
p.30
フリードマンは「個人化された越境的実践を行う」のは、じゅうぶんな経済・社会・文化資本やスキルをもったミドルクラス以上の人々であると指摘したが、グローバルな競争をたたかっているネオ・リベラル国家にとって、このような「グローバル資本とともに移動」する越境者=移民こそ「ナショナル・インタレスト」に資する人材であり、歓迎されるべき人々なのだ。
こうして、ポストコロニアル多文化主義はネオ・リベラルな経済ナショナリズムと、反-本質主義の論理を介して、まさに意図せざるかたちで結びつく。国民国家はグローバル資本を自国にひきつけるために、ミドルクラス移民のための多文化主義を展開するが、そうした多文化主義では労働者・下層階級移民にとって必要な社会福祉政策は、もはや課題とされないのである。
p.31
反-本質主義の「意図せざる帰結」の分析として、著者は、1990年代から2000年代初頭のオーストラリアの状況を事例として取り出す。すなわち「移民とオーストラリア社会における移民の位置に関する知識が承認、構築され、否定され破壊されてきたあり方」である。
そこでは、アカデミズムにおける反-本質主義的多文化主義の論理が「包摂」理念というかたちで政府の政策言説のなかに組み込まれたのであるが、それは非英語系移民への社会福祉サービスの削減や、エスニック・ポリティックスの抑圧、難民・家族移民排斥を正当化する論理へと流用されるようになった。
そして反-本質主義的多文化主義を逆手にとったネオ・リベラリズムの企てに対して、多文化主義研究は批判力を減退させていった。こうしたオーストラリアの事例を詳細に検討することは、ネオ・リベラリズムの時代における多文化主義のあり方を考えるうえで重要な意味をもつのである。
p.31
アカデミズムにおける反-本質主義的多文化主義論が、オーストラリアの──とくにハワード保守政権における──公定多文化主義言説に「流用」されていった経緯。反-本質主義がネオ・リベラルな政治権力に流用され、エスニック・マイノリティの「ディスエンパワーメント」に利用される事態。
すなわち、この「個別化された普遍主義」とは、マイノリティのエスニシティを反-本質主義によって武装解除し無力化したうえで、既成のナショナルな権力関係に組み込もうとする主流派ナショナリズムを正当化するものに他ならない。
このようなエスニシティの「個人化」は、ハワード政権のネオリベラル路線における福祉国家的多文化主義批判とも符号する。なぜなら、それは集団としてのエスニシティを脱構築することで、エスニック集団に対して行われる社会福祉への正当性をも侵食するのだが、こうした社会福祉の抑制とはじつのところ、社会構造のなかで従属的におかれた集団(非英語系移民および先住民族)への社会福祉の抑制に他ならないからである。
p.208
この本はオーストラリアの「エスニック・マイノリティ」についての研究であるが、提起される問題は、ジェンダー/セクシュアリティにおける「反-本質主義的」議論にも重要な示唆を与えてくれる。
すなわち「その効果」を想定せずに、能天気に──つまり無責任に──「クィア理論」や「ジェンダー理論」を称揚できないということだ。反-本質主義の「意図せざる帰結/政治的帰結」を十分に認識しておきたい。