HODGE'S PARROT

はてなダイアリーから移行しました。まだ未整理中。

読書機械のリトルネロ




アマゾンの新しい「サービス」に注目したい。
米アマゾン、本をページ単位でばら売りへ [WIRED NEWS]

 米アマゾン・コム社は3日(米国時間)、書籍をページ単位、章単位で販売するサービス『アマゾン・ページズ』を発表した。本を買わなくても、必要な部分だけインターネット上で読めるようにする。一方、本を購入後、追加料金を払えば、外出先でもネットで読める『アマゾン・アップグレード』も開始する。


『ページズ』は、書籍の実物を手にすることはできないものの、アマゾン社のウェブサイトでページの画像を閲覧する権利を買う形となる。開始時期や料金は発表しておらず、米メディアによると、来年中に1ページ当たり数円相当で始める模様だ。


 一方、『アップグレード』は、買った本を自宅に置いたままで、職場や旅行先でも読めるのがメリット。インターネットを利用可能な場所ならばどこでも、アマゾンに接続して閲覧できる。例えば、本の価格が20ドルならば、追加料金は2ドル程度になる模様だ。

Amazon to sell chapters of books [BBC NEWS]

Amazon said the new programmes build on technology which allows customers to search inside a book before buying it, and should help make books available at "any time and any where".


Its new schemes come as internet search Google announced the launch of a virtual library, allowing online access to millions of "public access" books from major libraries.


Text of these works - which are out of copyright - are being put online by the search giant's digitisation project. The text will be searchable and users will be able to save images of pages.

そしてこのニュースを読みながら、以前話題になった『ハッカー宣言』のいろいろなレビュー(誤解説、「語られかた」)との関連で思ったことがある。


単純なことである。ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』といった書籍が、どうして日本では、こんなにも<高価>なのか、という疑問である。ガタリの『分子革命』や『機械状無意識』にしてもそうだ。しかもこれらの本は携帯不可のハードカヴァー・オンリーである。

ドゥルーズガタリだけではない。フーコーの『狂気の歴史』や『言葉と物』『監獄の誕生』といった「基本書」は重々しい「ハードカヴァー+箱入り」だし、アントニオ・ネグリマイケル・ハートの『<帝国>』も重厚なハードカヴァーで平然と売られている(その点『マルチチュード』は安価で「軽い」ソフトカヴァーで、よい)。

例えば、『千のプラトー』の日本語版と英語版を比べてみたい。

千のプラトー―資本主義と分裂症

千のプラトー―資本主義と分裂症

A Thousand Plateaus: Capitalism and Schizophrenia

A Thousand Plateaus: Capitalism and Schizophrenia


日本語版は7,035円、英語版は3,067円(22.95ドル)。つまりアメリカの「一般」読者/アクティヴィストは、このドゥルーズ=ガタリの本を、日本の半分以下の値段で手にすることができる。しかもペーパーバックという「携帯」に便利な形態でだ。いつでもどこでも、街中でも、(通勤、通学)電車の中でも、スタバでも、公園でも、クラブでも、ハッテン場にでも携帯でき、その場その場、その時その時で読める。any time and any where.

(図書館という手もあるが、それだど、大事なところにマーカーは引けないし、書き込めないし、ページ折ったりもできない。「読み倒す」ことができない。何より、いつでもどこでも読みたいときに読めるということは不可能だ)

しかし日本ではどうだ。こういった高価で重厚長大な本は、経費(研究費)で購入して、静謐な書斎/研究室で読めというのだろうか。貧乏人は英語/フランス語で読めってか?

なぜ日本では、こういった基本的な書籍がペーパーバック化されないのだろう。出版されて1年ぐらいならば、高価&ハードカヴァーオンリーでもわかる。しかし『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』なんて、出版されてからもう10年以上も経っている。それは結局こういった舶来の思想書は、研究者の権威付けのツール以外の何者でもなく、「一般」読者やアクティヴィストのものでは決してない、ということだろうか。


そしてもし、マッケンジー・ワークの提唱する「ハッカー階級」なるものが存在するならば──『ハッカー宣言』はまだ読んでいない、したがって白田秀彰氏による”『ハッカー宣言』の誤解説”の「語られかた」を参考にすれば──こういった「権威を脱臼」させるのが「ハッカー階級」の仕事なのではないか。

ドゥルーズ本やフーコー本、あるいはデリダ本の「高価さ」を問題にするのが「ハッカー階級」のすべきことなのではないか。
それらの本を、「一般」読者やアクティヴィストのために、無償もしくは「安価に」提供する──ハッキングする──のが、「ハッカー階級」の本来の姿なのではないか。
ハイソな現代思想を、アンダーグランド・シーンと接続させるのが、「ハッカー階級」の遊戯なのではないか。


そういえばスラヴォイ・ジジェクは、ドゥルーズの読者は「ヤッピー」だと揶揄していた。ならば、高価で分厚いハードカヴァーのドゥルーズ本を「所有している」日本の読者の多くは「ベクトル階級」だと言えるかもしれない。


典型的な米国グローバル企業 Amazon による書籍の「ばら売り」「外出先でもネットで読める」といった「ハッカー的な」アイデアに期待したい。『千のプラトー』こそ、「プラトー」(章)単位で、いつでもどこでも──そう、ノマド的に──読みたい「テクスト」だからだ。