HODGE'S PARROT

はてなダイアリーから移行しました。まだ未整理中。

ハードゲイ理論、ハードゲイ哲学

フーコーは続けて、「ジイドがギリシアにいたら禁欲の哲学者になっていたでしょう」と推測する。同じ手を使っていうと、セネカがサンフランシスコにいれば、ゲイ・レザーマンに──あるいは、女役のマッチョに──なっているだろう




デイヴィッド・M・ハルプリン『聖フーコー』(村山敏勝 訳、太田出版)p.150-151

フーコーが、抵抗の実践を公式化するのを拒否し、その制度化にはなおのこと反対したのは、まさにこのためだった。しかし同時に彼は、現存の抵抗の技法を、ただの支配モードの焼き直しと解釈したり、ゲイのサブカルチャーの実践に、抑圧的社会体制の反復とか再生産しか見ないといった類の論理には、はっきりと異議を唱えた


「ええ、ええ、知っています。男と一緒に住むのはブルジョワ的、トイレでこそこそ愛し合うのはゲットーの受け入れ、バスハウスで愛し合うのは消費主義、というのですね。この手の言説は政治的なふりをしていますが、ただよく分かっていないだけです」。


しかしこの種の批判に対する答えがなくても、フーコーの政治に関する著作を読めば、彼がどう答えたかを暗示することはたくさんみつかる。というのもこの批判は、フーコーが全力で拒絶したイデオロギー傾向に、おそらく無意識のうちに依拠しているからだ。つまり、「真に」ラディカルで抵抗的なのはなにか、ラディカルに「見えている」だけで、実際は避けようとしているはずの敵に取り込まれてそこに改めて組み入れられているのがなにかを決定するために、理論的物差しを発明し、適用しようという傾向である

(中略)


われわれが絶対望んでならないのは、文化的抵抗のなんらかの物差し、あの実践この行為が、ほんとうにラディカルな変革をもたらすのか、真にクイアーであるのかを決定するための試験薬を編み出し、普及させることだろう。そんなことをすれば、最終的な権威を持った知と、教えるべき規律ができあがってしまう




ハルプリン『聖フーコー』p.165-167

ゲイ男性のジム・ボディはだから、その見た目の美しさに加えて、自分の欲望の対象として広告する方法である。ゲイの筋肉は力を意味しない。それは、きつい肉体労働が生み出す種類の筋肉には似ていない。まったく逆に、ゲイ男性のジム・ボディの、誇張され、神秘的な、磨き立てれ、細心に彫られた肉体は、有用性を追求して生まれたものではなく、実際的な機能はまったくない。ジムでしか作られないような筋肉なのである。


それらはエロティシズムをかきたてるように緻密に設計されており、まさに欲望を請い求めつつ、ストレートの男性性の視覚的規範を自分からこれ見よがしにひけらかし、挑発する。この規範は、ストレート男性の美はさりげなく、ふとした隙に見せるべきもので、自分の戦略をけっして認めてはならないといって、男性的な自己顕示に慎重さを強いるものだ。


フーコーの『監獄の誕生』の仮説通り、近代規律社会は、破壊する予定のものをまず可視化する、というなら、ゲイ男性のボディビルダーは、彼らのエロティックな欲望を身体の表面に書き込むことによって、倫理的企てを追求してあえて社会的リスクを自らにさらすばかりか、近代の規律メカニズムそのものに公然と反抗しているという意味で、あらゆる人のためになる政治的に価値のある仕事を果たしているといっていいだろう




ハルプリン『聖フーコー』p.170-171

聖フーコー―ゲイの聖人伝に向けて (批評空間叢書)

聖フーコー―ゲイの聖人伝に向けて (批評空間叢書)

Saint Foucault: Toward a Gay Hagiography

Saint Foucault: Toward a Gay Hagiography




ハードゲイの愛こそが究極の愛だと、私は信じていますよ〜。
だけど、HGの恋人は、一生現れないような気がします。好きなアイドルに恋人ができてしまうと気持ちが冷めてしまうように、HGが誰かのものになったら、私を好きといってくれる人が冷めてしまう気がするので。恋愛を求める気持ちはありますが、HGが幸せになってはいけないと思うんです。
HGは、いつまでもみなさんの手が股間に届く存在でいたいんですよ。大丈夫です。HG,孤独には慣れてますから。



レイザーラモンHG『HG』p.129-130