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優性思想 アントニオ・ネグリの見解より




アンヌ・ドュフールマンテル(AD)によるアントニオ・ネグリ(AN)のインタビュー「<帝国>とは何か」(杉村昌昭 訳、青土社現代思想』2003年2月号)で、ネグリが優性思想について触れていた。参考までに書いておきたい。このインタビューは現在、『ネグリ 生政治(ビオポリティーク)的自伝―帰還』(作品社)に収録されているようだ。

AD Eは優性思想(Eugenisme)のEでもありますね……。


AN 哲学というのは、たいていつねに優性思想の顕揚みたいなものです。それを免れているのは唯物論的思考の伝統だけですね。私は最近、怪物の問題について大いに研究しましたが、哲学者のなかには怪物はそれほどいませんね。逆に、優性思想は、近年における権力の擁護者にいたるまで、恒常的に見いだすことができます。


AD 優性思想というのは、概念としていうと、生命体を鋳型にはめるくわだてですね。


AN そうですね、完全に鋳型にはめるということです。その観点からすると、ナチズムというのはそのもっとも極端な形態だといえるでしょう。

AN 生の欲望、その力、その豊かさ、そういったものだけがわれわれが生権力に対抗させることができるものなのです。権力は性欲望に限界を設ける必要があります。権力は、一方で、主体、ミュルティテュッド、特異性といったものを、発明や抵抗を可能にする絆として関連づけて、いわばみずから生の組織者として機能しながら、他方で、そういったもののすべてを統制しようとするのです。哲学や優性思想の問題は、ひとえに、存在論的原理つまり存在の組織原理を、存在に課される指令や位階層の原理と一体化しようというところにあります。


AD それはかなり危険ですね。


AN そうです。しかし、それは危険であるだけでなく、恐るべき倒錯でもあります。いまも命脈を保っている哲学的優性思想の問題は、数世紀にわたって君臨してきたあるタイプの思想が、存在の原理は存在の支配の原理でもあるということを主張しているところにあります。これは出発点からしてゆがんだ思想です。このような原罪の起源が明らかになるには、ポストコロニアル的な研究やフェミニズムの研究を待たねばなりませんでした。

(中略)

スピヴァック──デリダを翻訳したアメリカ在住のインド出身の女性哲学者──のやっている研究、ポストコロニアリズムフェミニズムの批判的総合によって、このあたりの問題が徐々に明瞭になってきています。というのは、このような方向の研究は、優性思想のまやかしをはっきり指摘することができるからです。

哲学的=優性思想的」という問題提起は、実に、「示唆的」だ。

ネグリ 生政治(ビオポリティーク)的自伝―帰還

ネグリ 生政治(ビオポリティーク)的自伝―帰還