HODGE'S PARROT

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最後のフーガの技法

ベートーヴェンの「大フーガ」の自筆譜が発見されたということで、「新解釈」を掲げた「最新の」演奏が登場するかもしれない。それも楽しみだ。

とりあえずフーガとは何か。ダグラス・R・ホフスタッターの明快な説明を引用したい。

フーガの何たるかも、簡単に説明したい。フーガはカノンに似ており、基本となるひとつの主題がふつうは異なる声部や調で演奏され、ときには異なる速さで、もしくはさかさま、あるいは逆向きに演奏される。けれどもフーガの概念はカノンよりずっとゆるく、したがって、もっと感情豊かで芸術的な表現が可能となる。


フーガののろしの合図は、その始まり方にある。単一声部が主題をうたうのだ。それが終わると、第二声部が五度上または四度下のどちらかで入ってくる。その間にも第一声部は「対位主題」をうたいつづける。つまり、リズム・和声・旋律の面で主題と対照をなすように選ばれた補助的主題である。声部がそれぞれかわるがわる主題をうたいながら入り、たいていは他声部のうたう対位主題に合わせてゆくが、あとの声部は作曲者の頭に浮ぶどんな奇抜なこともやっていく。全声部が「到着する」と、そこには何の規則もない。なるほど基準といえるものは存在する──けれども、公式によってしかフーガをつくることができないといった基準ではない。


音楽の捧げもの』の中の二つのフーガは、「公式で作る」ことなど絶対不可能な傑出した例である。たんなるフーガ性よりもずっと深い何かが存在している。




ダグラス・R・ホフスタッター『ゲーデル, エッシャー, バッハ』(野崎明弘+はやし・はじめ+柳瀬尚紀 訳、白揚社)p.25-26

ところで、「新発見」「新解釈」もいいのだが、ただそれのみで「成否」を決めるのも、どうかと思うところがある。
例えば、1986年にはバッハの『フーガの技法』(THE ART OF FUGUE)の初稿版が出版された。これはバッハの自筆譜をもとにクリストフ・ヴォルフが校訂したものだ。「完結した」作品として、初期稿「フーガの技法」は、これはこれでとてもいい。

だが、「技法」(art)の素晴らしさは、「未完のフーガ」にあると断言したい。というか僕は「BACH」の名による主題・音列(b-a-c-h)が登場し、そして音楽がふっと中断するのが、とても好きなのだ。あのなんとも言えない、もの悲しい感じ。厳格・冷徹・精緻に構成された楽曲の最後の最後に、不思議な余韻を残し、ロマンティックなイメージを掻き立てる「到着しない」フーガ。この「ロマン」こそが、バッハの最後の「技法」(art)のような感じさえする。

バッハ:フーガの技法

バッハ:フーガの技法

Art of the Fugue

Art of the Fugue

奇妙だが本当だ。事実、その旋律を、彼の最も精緻な音楽作品の中へ巧妙に入り込ませている──つまり、『フーガの技法』の最後のコントラプンクトゥスのなかへ。これはバッハが書いた最後のフーガだ。ぼくはこれを初めて聴いたとき、どう終わるのか、見当もつかなかったね。突然、なんの警告もなしに、ふっと中断するんだよ。そしてそれから……死んだような静寂。ぼくはすぐさま、そこでバッハが死んだのだと理解した。とても言い表せないくらい悲しい瞬間だ。そしてそれが僕に及ぼした効果は──もうどうしようもないって感じ。とにかく、B─A─C─Hはそのフーガの最後の主題なんだ。それが曲のなかに隠されている。バッハははっきり指摘していないけれど、しかしそのことを知っていれば苦もなく見つけられるね。ほんと──いろいろなものを巧妙に隠す手がたくさんあるんだな、音楽には……




ダグラス・R・ホフスタッター『ゲーデル, エッシャー, バッハ』

Everybody's Bach

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ゲーデル,エッシャー,バッハ―あるいは不思議の環

ゲーデル,エッシャー,バッハ―あるいは不思議の環