HODGE'S PARROT

はてなダイアリーから移行しました。まだ未整理中。

差別主義者は、差別主義者として生き、差別主義者として死ぬだろう




昨日のエントリーで触れた『The Daily Star』の記事には、以下のようなことが書いてある。

Dalal al-Bizri, a Cairo-based Lebanese sociologist, says homosexuals in the region are more reviled than drug addicts "because homosexuality is seen as being exported to the region by a country whose armies and fleets have attacked Arabs: the United States, so homosexuality is widely seen as a disease spread by the United States and Israel to corrupt Arabs and undermine their religious faith."

要するに同性愛はアメリカとイスラエルによるアラブへの攻撃であり「疫病」だということだ。こういった「隠喩としての病」が、中東における同性愛者への迫害を促し、憎悪を掻き立て、彼/女たちの命を脅かしている。

日本では、川原泉が「子供が見る」マンガに、同性愛を「バイキン」だと書き込んだ。なぜ「バイキン」なのか──言うまでもなく、そこには、あきらかに、エイズとの関連がある。

1987年の一年間で一万人のニューヨーカーが(エイズで)死亡した。1991年には二万人が死亡した。すでにレトロ・ウイルスに犯された患者数は、市の健康管理システムと社会福祉制度の力能をはるかに超えていた。1987年には、Gay Men's Health Crisis よりも戦闘的なACT-UP(AIDS Coalition to Unleash Power)が作家/劇作家ラリー・クレーマーの提案で結成される。



高祖岩三郎「闘う情動の街角」(青土社現代思想』2005年7月号)

語源的に見ると、患者(patient)とは苦しむ者のこと。もっとも、いちばん強く恐れられるのは苦痛そのものではなくて、人をおとしめる苦痛です。



スーザン・ソンタグ『隠喩としての病 エイズとその隠喩』(富山太佳夫 訳、みすず書房)p.183-184

川原泉は、多くの人々がバタバタと斃れ、死んでいく状況を前にして、どうして「バイキン」なんていう<言葉>を吐けるんだ? なぜ「病気以外の苦痛」をも人(患者)に負わせるんだ? それが「当時の流行」だったからなのか? どういう「思い」でそんな<言葉>を書けるんだ? どうして「子供が見る」本に書き込めるんだ? どんな「意図」が、そこにはあるんだ?

こんな最悪の「ヘイトスピーチ」を、20年間もそのままにして「繰り返し」、同性愛者の人権を奪い、そして尊厳を──20年間も──蔑ろにしてきた……今後も続けるつもりなんだろう? いったい、いつまで?
お前のことは、絶対に許せない。

悪いことに、ゲイ・コミュニティは死にいたる病が最初に蔓延し、目に見える形で現れた集団であったという医学的な災難に対処せねばならなかった。さらに悪いことには、その社会的な責任を引き受けなければならなかったのだ。エイズの恐怖以前でさえも、ギリシャでは警察は同性愛者であるとおぼしき人を逮捕し、性病の検査を強制的に受けさせることができるような法律が可決された。


エイズやその感染経路がわかるまでには、ゲイ・コミュニティを処罰することで、そしてコミュニティの諸制度を攻撃することで、エイズを管理するためのあらゆる提案が出されたのである。


在郷軍人病の原因がわかっていなかったときには、アメリカの在郷軍人らを検疫し、彼らが出会う場所を閉鎖する必要性はなんら生じなかった。イギリスの伝染病法令は梅毒の抑制ではほとんど機能しなかったが、その法令が対象とする範囲に含まれる女性たちには甚大な苦痛を生じさせた。新しい疫病に伴うパニックやそれにより作り出されたスケープゴートによる被害者についての歴史から学ぶことは、エイズに基づく反ゲイ的な政策を正当化するあらゆる試みに対してはきわめて懐疑的なまなざしをもって立ち止まり、考えることを私たちのだれもがすべきだということである。



ゲイル・ルービン「性を考える」(河口和也 訳、『現代思想 臨時増刊』1997年5月号)

だったら、僕もメリナ・メリクレスが放った言葉を何度でも「繰り返し」たい。
ファシストは、ファシストとして生き、ファシストとして死ぬでしょう」

人権の原理は経験に基づいていますが、それは女性(同性愛者)の経験ではありません。しかし私は女性(同性愛者)の人権が侵害されてこなかったといっているのではありません。状況が違えば男性(異性愛者)にもふりかかる暴力が、女性(同性愛者)に対して同じように加えられるとき──切断された女性(同性愛者)の手足から血が流れたとき、女性(同性愛者)が立坑で銃殺され、貨車のなかで毒ガスで殺されたとき、廃坑の底に女性(同性愛者)の死骸が隠されたとき、実験のために女性(同性愛者)の頭蓋骨がアウシュヴィッツからストラスブールに送られたとき──それらの事件が女性(同性愛者)に対する人権蹂躙の歴史として記録されることはありません。その女性(同性愛者)たちはアルゼンチン人、ホンジュラス人あるいはユダヤ人として記録されます。

打擲、失踪、拷問死というような男性(異性愛者)にも起こりうることが女性(同性愛者)に起こったとき、それが女性(同性愛者)に対して行われたという事実は、人間の苦難の範疇には入らないし、人間の苦難として記録されることはないのです。



キャサリン・マッキノン「戦時の犯罪、平時の犯罪」(みすず書房『人権について』より)p.104 ( )内は引用者