HODGE'S PARROT

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ブリテン 『戦争レクイエム』




川原泉は「倒錯」という<差別語>を使用して、「バイキン」というまるでナチスのような言説を平然と使用している。なぜ、「倒錯」という<差別語>を、人間に対して吐けるんだ?

おまえには「倒錯」と名指しされる「子供の顔」が見えないのか?
「そのような差別語で呼ばれる」子供を持つ「親の顔」が想像できないのか? その「家族」については、どうなんだ?

おまえは、自分の子供や家族の一人が「そのような<差別語>で呼ばれても」平気でいられるのか?

ある人物が「同性愛者であること」は「偶然」の出来事である。ある人物が「同性愛者でないこと」も「偶然」の出来事である。

ある家族に「同性愛者がいること」は「偶然」の出来事である。ある家族に「同性愛者がいないこと」も「偶然」の出来事である。

自分たちの出版している本が、他者の人権を奪い、尊厳を傷つけ、「社会的な死」を与える。そのことに対して良心の「痛み」を何も感じないのだろうか。



スローターハウス2005

だいたい「ホモ」という蔑称の使用は、日本人を「ジャップ」、朝鮮人を「チョン」と呼ぶことと同じだ。なぜ、「蔑称」を子供に教えるんだ?

三国人」だけではない。かつては、障害者や同和地区の人々、ハンセン氏病患者、在日外国人、両親のいない子供等、そういった人たちを揶揄し侮蔑する「言葉」が平気で平然と使われていたのだろう。しかし現在はそういった言葉は「特別なディスクール」以外、ほとんど使用されないだろう。

だが「やおい」は違う。「やおい」を形成する「集団」は、現在でも、平然と同性愛者を蔑称の「ホモ」と呼ぶ「集団」である。



サユル・フリードレンダー『ナチズムの美学』レビュー

山岸凉子は、上記のリンクによると、同性愛に対して「精神疾患」説を披露したり、血友病=「生存不適格者」説を唱えたりしているということだ。

とんでもないことだと思う。「子供が見る」マンガに、なぜ、こんなことが書かれるのか。なぜ、こんなことが許されるのか。

そもそもは大西赤人さんが血友病であることを理由に浦和高校への入学を拒否された(表向きはそういうことになはなっていない)ことがあり、また、渡辺昇一さんが新聞の連載の中で大西赤人さんの弟の野人さんも血友病であることに対して、「現在では治癒不可能な悪性の遺伝病をもつ子どもを作るような試みは慎んだ方が人間の尊厳にふさわしいものだと思う。」と書いたことから論争が起こったとのこと。



その文章「神聖な義務」はhttp://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/d/h001003.htmであとがきも含めて全文が読めますが、このような優性思想的な思考、生まれてこないほうが尊厳が保たれる(生まれなければそもそも尊厳も何も!!)、という発想に疑問を感じると共に気になったのが

今は日本には「自助クル(ミズカラタスクル)人民」が多いために、生活保護費総額1兆2千億という巨額を支えていることができる。「自助クル(ミズカラタスクル)人民」の数が相対的に減少すれば絶対必要な福祉水準さえも下らざるをえないことは明白なのである。

というゼロサムゲーム的な発想です。誰かを助けることで損失が生じる、これをどうにかしなくてはもったいない!→助けなくても良い人もいるのではないか、となってしまう思考の貧しさのスパイラル。またここでは日本の社会保障費用が先進国ではダントツに低い!!ことには触れられていません。このことの卑怯さ。



http://d.hatena.ne.jp/demian/20050920/p1

近代の全体主義は、左右いずれのものにせよ、病気のイメージをとくに愛好する傾向があった──多くのことを教える事実ではある。ナチスは幾つかの「人種の」血が混ざっている者は梅毒患者に近いとした。ヨーロッパのユダヤ人は執拗に梅毒や癌にたとえられ、除去せよと言われもした。病気の隠喩はボルシェヴィッキの議論の屋台骨のひとつで、共産主義陣営の論客でも一頭地をぬくトロツキーなどこれを随分と連発したものである──とりわけ1929年のソヴィエト追放後には。


スターリン主義は彼からコレラとも、梅毒とも、癌とも呼ばれた。政治に関係するところでは致命的な病気のイメージだけを使うため、隠喩はより激烈な性格をおびてくるわけである。

ところで、政治的な事件・状況を病気にたとえるというのは、それに罪を押しつけ、罰を下せということに他ならないのである。



スーザン・ソンタグ『隠喩としての病 エイズとその隠喩』(富山太桂夫 訳、みすず書房)p.122-123

「子供が見る」マンガに、差別表現や「差別してもかまわない=当然だ」という思想を、そして人間の尊厳を奪う言説を「忍び込ませる」こと。なぜ、こんな「卑劣」なことができるのか。「卑怯」もいいところじゃないか。

なぜ、こういったことが「批判」を受けずに、見逃されているのか(なぜ「問題化」されてこなかったのか。<誰が>「問題化しなかった」のか。それは「不作為」とは言えないのだろうか)。

そのことによって、いったい、誰が、<利益>を得るのか。

言論を統制する全体主義の国々でも、むろん、ジョークが存在する。権力者の側からは、それはプロパガンダの武器として用いられる。この笑いの犠牲者とされるのは、政治的・社会的な弱者や少数者、さらには敵視されている外国の存在などである。ナチ・ドイツでは、ユダヤ人を誹謗するジョークやスローガンが多く用いられた。



宮田光男『ナチ・ドイツと言語』(岩波新書、p.130)

虐待されている女性の心理についても(ユダヤ人と)同様のことが言えます。これはより広くみれば、フェミニティの次元でもあります。唯一の現実は虐待する者の権力です。頭を低くしていれば生き延びられます。支配的な基準におとなしく従い、底辺層としての恒常的無力状態を受け入れることでもあります。

恥ずべき存在として扱われていると、あたかもそれが合法的かつ永久に従属的立場におかれることの正当な理由であるかのように感じられるようになり、女性はつねに自分でない者になりたいと願い、そう努力するようにしむけられてしまいます。
女性なら見に覚えがあるように、あなたがそうなりきるまで虚偽の人生を送り、ついにそれが本物になってしまいます。
これが加害者が規定する現実に対する被害者側の適応なのです
そのような現実が、不平等問題の最終的な解決策へと収斂していきます。
すなわち絶滅です。



キャサリン・マッキノン「戦時の犯罪、平時の犯罪」p.130

マツダは中傷発言を、「単なる言葉」(Only Words)とは看做さない。実際に、現実に、人を傷つける行為遂行だと主張する。

ヘイトスピーチは、傷を──外傷を、裂傷を──与えるもの(Words that Wound)なのである。

たとえばマリ・マツダの公式では、発話は社会の支配関係を単に反映しているだけではなく、発話が支配を演じることによって、社会構造を再就任させる手段ともなっている。この発話内行為のモデルでは、憎悪発話は、その受け手を発言の瞬間に作りだすが、それは中傷を描写しているのでも、また結果として中傷を生産しているわけではなく、その言葉を語っているときに、中傷が社会的従属を意味するような中傷のパフォーマンスになっているのである。



ジュディス・バトラー触発する言葉―言語・権力・行為体 』p.29

このマツダの主張は、「やおい」における差別表現、侮蔑表現、暴力表現──端的に言えばレイプ──を「問題化」する有効な「手掛り」を与えてくれるのではないか。

なぜ「やおい」は、他のポルノと同様の措置──すなわちレーティングとゾーニングを免れているのか。「やおい」には、レイプ表現が溢れている。のみならず、同性愛に対する揶揄、侮蔑、そして「蔑称の使用」も溢れている。暴力表現と差別表現が渾然一体になっている。したがってそれは、同性愛を貶める「最高の/最悪のメディア」に他ならない。

さらに深刻な問題がある。それは「やおい、そのもの(内容)」だけではなく、「やおい、について語ること」、つまり「その語られかた」においても、ゲイに対する揶揄、侮蔑、「蔑称の使用」が認められることだ。

したがって「やおい」の「語られかた」すなわち「その発話の効果」も注視するべきである。


愛ゆえのレイプ、愛国心ゆえのレイプ

マツダが推定していることは、誰かのあだ名(ネーム)を言うこと、もっと正確に言えば中傷的な名指しをすることは、その人を社会的に従属化することであり、さらには、その特定の場所(教育の現場や職場)や、国の公的領域というさらに一般的な文脈のなかで、共通に認められているはずの権利や自由を行使する能力を、名指しされた人から奪うという効果をもっているということだ。

発話の規制に賛同する議論のなかには、規制がおこなわれる文脈を特定して、ある種の職場や教育環境に限定しようというものもあるが、マツダは、国の公的領域全体を、憎悪発話に対する規制の適切な参照枠だと主張するつもりのようだ。ある集団が「歴史的に従属化されて」いればいるほど、その集団に向けられる憎悪発話は、「構造的な従属化」の追認と拡張になる。マツダにとって、従属化の歴史的形態は「構造的」地位をもっており、したがって一般化された歴史や構造が、憎悪発話を効力あるものにする「文脈」を構成しているということのようだ。



ジュディス・バトラー『触発する言葉』(竹村和子 訳、岩波書店)p.118-119

第二次世界大戦勃発時、デリダは9歳、フランス降伏とヴィシー政権成立直後に10歳になる。第一次大戦の英雄ペタン元帥を首班とするヴィシー政権は、大革命以来の共和主義的フランスを否定する「国民革命」を掲げ、いくつかの点ではドイツより過酷といわれる反ユダヤ法を制定し、ユダヤ人狩りを行って強制収容所に送りこむなど、ユダヤ人迫害政策を実行した。


アルジェリアユダヤ人を直撃したのは、40年10月7日のクレミュー法の廃止であり、これによって、70年間認められてきたユダヤ人の公的諸権利が今度はまるごと剥奪されることになったのである。デリダはこの件に触れて、ほぼつぎのようなことをいっている。個人なら別だが、ある民族的ないし宗教的集団が事前にまったくの意見も聴取されず、ある日突然国家によって一方的に市民権を剥奪され、かつ「当該集団が他のいかなる市民権をも回復しない」というケースがかつてあっただろうか? 


しかもこの措置は、ドイツ人占領者によってとられたのではなく、ドイツ人の介入や要求はいささかもないまま、もっぱらフランス当局が決定し、フランス人によってとられたのである。「アルジェリアではドイツ軍の制服はまったく見られなかった。どんなアリバイも、どんな否認も、どんな幻想もありえない。この排除の責任を外国人占領者に転嫁することは不可能だったのだ」(『他者の一言語使用』)。


歴史家は、市民権の剥奪はアルジェリアユダヤ人たちに「深い屈辱」を味わわせた、と書いている。



高橋哲哉デリダ』(講談社)p.19-20

やおい、の問題」=「日本独特の差別形態」を語るときに、不可欠の想像力を喚起してくれる要素は「レイプ」である。

なぜ当局/権力は、「やおい」における「レイプ表現」を見逃しているのか──そこに何かしらの意図はないのだろうか。フェミニスト社会学者は、「やおい」にみられる「日本独特の差別形態」及び「それを容認・公認している権力の姿勢」を「問題化」するべきである。


愛ゆえのレイプ、愛国心ゆえのレイプ

したがって、収容所で犯された残虐行為を前にして立てるべき正しい問いとは、人間に対してこれほど残酷な犯罪を遂行することがいったいどのようにして可能だったのか、という偽善的な問いではない。


とりわけ真摯で、とりわけさらに有用なのは、人間がこれほど全面的に、何をされようとそれが犯罪として現れることがないほどに(事実、それほどに一切は本当に可能になっていたのだ)自らの権利と特権を奪われることが可能だったのは、どのような法的手続きおよび政治的装置を手段としてのことだったのか、これを注意深く探求することであろう。



ジョルジュ・アガンベン人権の彼方に―政治哲学ノート』(高桑和巳 訳、以文社)p.46


ブリテン:戦争レクイエム

ブリテン:戦争レクイエム

Benjamin Britten's War Requiem [BBC]

What passing-bells for these who die as cattle?
Only the monstrous anger of the guns.
Only the stuttering rifles' rapid rattle
Can patter out their hasty orisons.

No mockeries for them from prayers or bells,
Nor any voice of mourning, save the choirs, -
The shrill, demented choirs of wailing shells...


Wilfred Owen, 'Anthem for Doomed Youth'

Text of the War Requiem

WAR REQUIEM [DVD]

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