HODGE'S PARROT

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少女マンガと優性思想、そして赤木かん子




川原泉の「ヘイトスピーチ」には、その根に「優性思想」に基づく偏見と差別があるのではないか。そして、その差別主義に塗れた川原作品を「子供に紹介する」赤木かん子にも「問題」があるのではないか、と思っていた矢先、そのことを指摘した記事を見つけた。

山岸凉子ばかりではなく、少女マンガを読んでいると、あからさまな優生思想や人種主義やホモフォビアにぶつかってぎょっとすることが時々ありますが、そういう作品のほうが「異色のテーマを大胆にとりあげた」「人間性を鋭く洞察した」てな肯定的評価を得ていたりすることもたびたびで、少女マンガというジャンルは、「社会的視野の狭小および欠落、社会と人間とにたいする科学的・能動的把握の不足」といった類の批判を無効化してしまうような構造のもとにあるのだろうか、とも思われます。しかし、山岸凉子ぐらい権威があって、真剣に読まれている作家に、「ぜんそく母原病」説とか「特殊疾患=生存不適格者」説とかを、インパクトのある物語として展開されてしまうのはやっぱり困る。ついでに「コスモス」をあっさり誉めてしまう赤木かん子あたりにも困ったもんだ。


http://d.hatena.ne.jp/hanak53/20050922/1127496369

少年マンガの「性表現」ばかりが「問題化」されているが、本当に問題なのは──「問題化」すべきなのは──こういった「人権」を踏みにじり、「人間性」を貶める「差別思想」(の「再生産」)なのではないか。

山岸凉子については、初めて知ったのだが、インターセックスを「サイコパス」と同列させたり、血友病を「生存不適格者」説として書くというのは、いったいどういう神経しているんだろう。なぜ、これまで、このことが「問題化」されてこなかったのだろう。そのことのほうがおかしいと思う(「問題化」されてこなかった、見逃されたきた、という事態も「問題」であるはずだ)。

そしてこのような少女マンガの「差別主義」は、「やおい」にもはっきりと引き継がれていると思う。

この山岸凉子川原泉、そして「やおい」における「差別」には、あまりにもアタマにきて、怒りを通り越して、今日は何も書くことができない。もう少し冷静になってから書きたい。


以前書いた「やおい」の問題点の一部

やおい」は「同性愛者の苦しみ」を<利用>して「作成」される。「禁断の愛」「虐げられた者たちの愛」といった、おきまりのフレーズが、ものの見事に「反復」される。
さらに問題なのは、「やおい論」において、「同性愛者/マイノリティ」の「苦しみ」を自分たちはわかっているという、安っぽい「同情」が連発されるが、しかし良く読むと、それは単なる「自己正当化」するための卑怯なエクスキューズでしかないことだ。しかも高城響のように、”同性愛は異常である……しかし「やおい」は異常ではない”、ということを平然と言ってのける「差別主義者」もいる──「異常な同性愛」=「やおい」を量産しておきながらだ。

距離というのは、拡大された思考様式、つまり思索においてあらゆる他者の立場に身を置ける能力が展開し得る空間である。距離が破壊されれば、多元性も破壊される。政治的空間における同情は、人間的なものではなく、占有欲の現われである。

解説 p.84-85

いったい、なぜ、「他者」の立場へ身をおくことができるならば、どうして「レイプされてハッピーエンド」などという「発想」が生まれるのだろう。いったい<誰>がレイプされて、そんなことを思うのだろう。それは「やおい」が「同性愛」を「パリア」と見なして、自分たちの「汚辱」を擦りつけているからだ。ここには卑怯で卑劣で薄汚い政治権力が働いている。

しかし、この文章に書かれている「差別性」に、どうして小谷真理は気がつかないのだろう。<ポーの一族>が、なぜ「疑いの対象」にならないのだろう。それは小谷が、「他人の痛み」を決して理解できない「規則に従って」いるからだ。同性愛を「ネガティヴな比喩」で表現しても構わないという「実践」に対して、それを「疑うフレーム」を、まったく、持ち合わせていないからだ。


どうして「吸血鬼」が「同性愛」のメタファーになるのか。そして「怪物性を剥奪する」ためには、まず「怪物であるという前提」が<ある>ことを、なぜ「問題」にしないのか。そして「その一方で逸脱者たちの疎外感を浮き彫りにする」とあるが、どうして、「逸脱者たちの疎外感」を理解できるのか──それは「逸脱者=他者」ではなくて、<わたしの>疎外感ではないのか。
「逸脱に憧れる」ことと「逸脱者として差別される」ことは、まったく、異なる「経験」だ。

ギリシアの女優メリナ・メルクーリは、ギリシアの軍事政権に対し「勇敢に」異を唱え、そのため国籍を剥奪され、命の危険にさらされた。
彼女はそのとき、「ファシストファシストとして生き、ファシストとして死ぬでしょう。私はギリシア人として生まれ、ギリシア人として死にます」と発言した。


川原泉について


それと「優性思想」についてトラックバックを送ってくれたid:sarutoraさんにも、再TBを送っておきたい。なぜなら、「優性思想」はナチスだけの問題ではなく、我々の身近にある──いま・ここにある──「問題」であることを「再確認」したからだ。

郵政問題より優生問題 その2

しかし、ナチスは、そしてナチスの犯罪は、「遠い」ものではなく、われわれのごく「近く」、いやわれわれの「内部」にあるものなのです(これはある意味でありふれた主張かもしれませんが、繰り返し指摘する必要があると思います)。

(中略)

  • そして、当時の「彼ら」にとって、「ユダヤ人」「障害者」「同性愛者」のことは、要するに「人ごと」だった。
  • そして、今の「私たち」にとって、ナチス(の犯罪)は、要するに「人ごと」である。
  • そして、今の「私たち」にとって、「障害者自立支援法」は、要するに「人ごとで」ある。

この猿虎日記さんの意見はまったくそのとおりだ。

「子供の本の探偵・研究家」である赤木かん子氏は、山岸凉子川原泉の差別表現について、どのようなスタンスを取っているのか、伺ってみたい。
あなたには差別される「子供の顔」が見えますか? 見ようとしていますか? 
あなたは、思春期における同性愛の少年少女の自殺の多さを、ご存知ですか?
なぜ、彼/女らが自殺するのか──自殺に追い込まれるのか──理解できますか?

二十世紀の政治悪は、何千、いや何百万という普通の個人が加わることがなければ実行されえなかったであろう。あるいは、制度面で体制がある程度整ったあと、その社会全体に共謀の意識が広がることがなければ起こりえなかったであろう。これらの基本的事実を直視すれば、「戦争犯罪」を裁く法廷がたとえいくつ設置されてきたにせよ、政治悪に対する道徳的責任という考え方のまさに存立自体そのものが脅かされているように思われる。

アイヒマンの正常さは「恐ろしい」。というのも、究極の悪事が行われるのに別に怪物がいなくてもいいという事実をまずわれわれに突きつける。のみならず、自分の任務を遂行したあとで責任を転嫁するという、ぎりぎりの環境においてさえも発露される「人間的な、あまりに人間的な」傾向が浮かび上がるからである。


デーナ・リチャード・ヴィラ『政治・哲学・恐怖  ハンナ・アレントの思想』(伊藤誓/磯山甚一 訳、法政大学出版局)p.82

政治・哲学・恐怖―ハンナ・アレントの思想 (叢書・ウニベルシタス)

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