HODGE'S PARROT

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主のない槌 BOULEZ conducts BOULEZ / BOULEZ sans BOULEZ



我々はここで何について語っているのか。ガラスの破片が不毛な煌きを交わしながら夜の虚空に散らばっていくかのようなマラルメの文学空間についてか。差延差延を生みつつきりもなく散種されていくデリダの思考空間についてか。
言うまでもなく、直接の対象はマラルメでもなければデリダでもない、ブーレーズの限りなく美しい音楽作品<プリ・スロン・プリ──襞にそって襞を>に他ならない。けれども人は、<マラルメの肖像>といった副題をもつこの作品に耳を傾けるとき、ブーレーズにそってマラルメを聴いているのであり、同時に、ブーレーズにそってデリダを、マラルメの<骰子一擲>の中にエクリチュールの至高の戯れを幻視するデリダを、聴いているのである。



浅田彰『ヘルメスの音楽』(ちくま学芸文庫)p.117-118

エキサイト・ブックスの「ポピュラー音楽では「作者」は拡散していく――増田聡インタビュー」他を、偶然(チャンス)、読んだ。

一方、音楽には楽譜、演奏、録音といった複数のレイヤーがあって、各々の層において誰が作者か、なんてことを厳密に考えていくと非常にややこしい。なので、歴史的にも、イデオロギー的にも作曲者が一番エラいことになっていることが、再考されにくい構造があるような気がしますね。ですから音楽学の領域では、いわゆるクラシック音楽の作曲家に象徴される「強い作者性」が、研究の枠組みを規定してきたわけです。
  たとえば学校の音楽室の後ろには、バッハとかベートーヴェン肖像画が並んでますよね。


――必ずありますね。


増田 でも、美術室にゴッホピカソ肖像画なんてないでしょう。そういうのも、音楽の世界の作曲家中心主義を反映したものだし、同時に再生産しているものだと思うんです。それがさほど疑われずに来てしまったんですね。いまでも西洋音楽史では、作曲家単位で研究分野が編制される傾向が強い(最近では社会史や受容史も盛んになってきてますが)。
  制作過程にある複数のレイヤーと、イデオロギーレベルでの作曲家中心主義はうまく折り合わない。なんだか複雑ですっきりしないから作曲家中心主義の方を優先させて、複数のレイヤーを通じて君臨する一人の「作者」を想定することで、たとえばベートーヴェンが一番エラいことにしちゃえ、と。そんな感じだったんじゃないでしょうか。


http://media.excite.co.jp/book/daily/friday/014/

そうだといえば、そうなのかもしれない。が、なんか腑に落ちない。ポピュラー音楽に対するクラシック音楽って、そんなにカンタンに明確に二分できるものなのだろうか。だいたい「クラシック音楽」の「総体」を単純化しすぎていないだろうか──ポピュラー音楽と都合よく対比させるために。

卑近な例で言えば、「作曲者が一番エラいことになっていること」はタテマエとして頑としてあるかもしれないが、しかし本音では、フルトヴェングラーが「神」であったり、カラヤンが「帝王」であったり、カール・ベームが「老アイドル」であったり、朝比奈隆が「現人神」と思っていた人も、かなりいるのではないだろうか(学校の先生の言うことを誰が信じている? 信じているフリをしているだけじゃないのか)。

それに演奏会に行く理由って、ショパンの『葬送ソナタ』を聴きいがために行くというよりも、ポリーニアシュケナージアルゲリッチの演奏(パフォーマンス)が聴きたくて、会場に向かうという人の方が多いのではないか。

悪い意味で、対象への愛情に依存したオタクの仕事になっちゃっているんですね。そのオタクの仕事でも、対象自体に価値があると社会から見なされているうちはいいんだけれども、クラシック音楽みたいに社会的なニーズが減少しちゃったら、一気に音楽学もニーズがなくなっちゃうわけでしょう。そうじゃなくて、一つの自律した人文学として音楽学をやっていく以上は、対象に依存しないような形で、それをどう理解するかという構えを取る必要があると思うんです。「そのための記述モデルを私は開発してきたわけです」みたいなことを将来胸をはって言えればいいんですが(笑)。


http://media.excite.co.jp/book/daily/friday/017/

人文学(者)に「指揮された=管理された(デイリジエ)」音楽? 
何で「人文学」として「音楽学」をやらねばならないのか。例えば「人文学」として「体育/スポーツ学」をするか? 
どうしてポリーニツィメルマンやムターやパールマンクレーメルといった演奏家は「人文学者」と<同レベル>でないんだ──どうして「人文学研究者」の<対象>に成り下がるんだ? 
ピアニストやヴァイオリニスト、チェリスト……こそが音楽における「研究者」ではないのか。彼らの「演奏」こそが、「人文学者」における「研究論文」に匹敵するのではないか。彼らのCDこそが、「出版された書籍」に相当する研究成果なのではないか。

そもそも「社会的なニーズがない」のは人文学者=研究者のほうではないか。そのため、音楽やオタクやアートにまで、「人文学者として敬愛している」フーコーやバルトやラカンといった「作家の理論」を武器に、付け入ろうとしているのではないか。
だいたい人文学の「概念装置」はそれほどオールマイティなのだろうか。

絵画と音楽の間の一般的な関係に戻るなら、今やわれわれは何故に後者の方が優先性を帯びてしまうのかが容易に理解できる。音楽は、音の柔軟な非物質性の上に作用するがゆえに、素材の厚みや支持体の限界によって何らかの形でつねに抑制されてしまう絵画に比べ、より流動的で、自由で、はるかに「効率的」であるのだ。形態を「逃走[消失]させる」能力との関係において考察するなら、われわれは絵画は「下方への」、手つかずの物質の方への、素材として把握された要素的なるものの方への逃走をなすのに対して、音楽は逆に「上方への」、それらの身体を活性化している純粋エネルギーの方への、強度という次元における要素的なるものの方への逃走をなす、と言えるだろう。



ミレイユ・ビュイダン『サハラ  ジル・ドゥルーズの美学』(阿部宏慈 訳、法政大学出版局)p.175

このインタビューを読むと、なんだか「人文科学覇権主義」みたいなものを感じる──ロラン・バルトフーコーデリダドゥルーズの「作家性」に依存した。人文学者ってそんなに偉いのか。ただ単に「メタ・レベル」ポジションで「語っている」、それだけではないか。「音楽を語るボキャブラリー」の貧しさを訴え、それを人文科学の「(見慣れた、ガイシュツの)方法論=パクリ」で補うことが、音楽の「豊かさ」に繋がるのだろうか。バルトやフーコーの「ボキャブラリー」を使用することが、そんなに「ソフィストケート」されているのだろうか。人文学者の「指導原理」をそのまま音楽という「客体」に当てはめることができるのだろうか。

今日では、「アイディア市場」(新しいアイディアは、自分自身の能力を顕示するために、自由な議論といった市場類似の競争でテストされねばならない)がしばしば引き合いに出されるが、この「アイディア市場」もまた、それが効率的であり続けるには、イデオロギー的な構築物が依拠せねばならないアイディアの闇市、多くの否認された忌まわしいセクシストやレイシストのアイディア(や同類の他のアイディア)に纏わり憑かれてしまうことが避けられない、と言えないだろうか?


スラヴォイ・ジジェク『身体なき器官』(長原豊 訳、河出書房新社)p.354

デリダはミレールと同じようにフーコーフロイトへの態度の揺れに着目しているが、ミレールが時系列的に精神分析の評価からの価値下落というかたちでブレを折り拡げているのにたいして、むしろ共時的な軸の上に位置づけている。『言葉と物』以前、『狂気と歴史』という初期テキストにまで遡って、そのテキストの内に刻印されたフロイトの位置の「振り子の揺れ」──その後の著作に一貫して内在する──を測定してみせるのである。
フーコーは、安定可能な、固定しうる、そして一義的に把握へと差し出された歴史的な場所のなかに、フロイトを位置づけたい、と同時に、位置づけようとはしない」

ミレールになぞるならばフーコーにとってフロイトは「指導原理」(とはデリダは言わないが)と客体のあいだを『狂気の歴史』から一貫して揺れる。「……終わることのない交替運動、交互に、開くか閉じるか、近づけるか遠ざけるか、棄却するか受け入れるか、閉め出すか入れるか、貶めるか正当化するか、統御するか解き放つか……」。
つまり、フロイトフーコーが彼を書き込もうとする「諸々の系列に属すると同時に属さない」。一方で、アルトーニーチェ、ヘンダーリンといった人文科学の閉域を突破し、フーコーの探求の「起点となる場」を構成する人びとの側にフロイトは登録される。


酒井隆史『自由論』(青土社)p.233-234

音楽が「音」という「テクニカルな話」をするのは当然である。数学や物理や情報処理だって「テクニカルな話」がまずメインなんじゃないだろうか。シュトックハウゼンクセナキス、グリゼー、トリスタン・ミュライユを「普通に」解説したら、テクノロジーに触れざるを得ない(同様に、ノーノやヘンツェを「語る」ときには政治的言説が付きまとうだろう)。

かつてフランス国家の音楽予算を独占したIRCAM(音響学研究所)の主(ぬし)は、コンピュータによる音楽の分析、楽器の音響学的解析、音響合成、音楽と知覚の関係分析、人間の演奏とコンピュータのインタラクション、そしてそれらの研究を広く知らしめるためのペタゴニー行ったのではないか。
これらの「製作過程にある(ワーク・イン・プログレス)」複数のレイヤーからなる研究成果を「ソフィストケート」された「文学的語法」で、どのように「語る」のか。下手に折衷すると「知の欺瞞」になる可能性もあるのではないか。

増田 バルトのテクスト論というのは、目の前に存在する「書かれたもの」の奥には、「作者」という人格が存在するように見えるけれど、実はその「書かれたもの」の実体とは、紙に載ったインクの筋にすぎない。だから、そこから(「作者の人格の投影」といったものも含んだ)さまざまな「意味」を発生させているのは実は「読者」のほうなのだ、というものだけど、そういうある意味で過激な議論がでてくるのも文芸がシンプルな、単層の記号系だから、というメディア論的な事情があるからだと思います。


http://media.excite.co.jp/book/daily/friday/014/

これはまったくそのとおりで、「書かれたもの」=「楽譜」を、どのように読むか、「意味=方向」付けるのかは、「私」という「読者=演奏家/プレイヤー」に他ならない。ショパンの『練習曲』の楽譜には指番号は書いていない。パガニーニの『カプリース』の楽譜にはヴィブラートの指定は書いていない。

そして、聴き手が、ある音楽を”シューベルトの『未完成交響曲(ワーク・イン・プログレス・シンフォニー?)』”として聴くことができるのは、その音楽が様々な演奏上のズレを含みながらも”シューベルトの『未完成交響曲』”として反復・演奏されるがゆえに、パフォーマティヴなプロセスによって達成されるのではないか。『4分33秒』という楽曲だって、本来は、楽器編成も任意、時間も任意である。そもそもすべての「クラシック音楽」は、チャンス・オペレーションとしてパフォーマンス可能なのではないか。

シューマンの音楽は耳からずっと奥深いところに入っていく。リズムが打たれ、体の中に筋肉の中に、そして「メロス」の快楽により内臓にも入り込む。シューマンの曲は、演奏する一人だけのために書かれている。シューマン的ピアニストとは、「私」なのである。


ロラン・バルトシューマンを愛す」(マルセル・ボーフィス『シューマンのピアノ音楽』より、音楽之友社)p.8

たしかに、マラルメはテクストを聖別するために主体としての作者の死を要請した。けれでも、それは、死せる作者/作者の死そのものが文学空間の虚の支点となるためでもありはしなかっただろうか──「花」と言う私の不在、私のパロールの不在こそが、花のテクスチュアリティのありとあらゆる戯れを保証するように?



浅田彰『ヘルメスの音楽』(ちくま学芸文庫)p.122

ブーレーズの作品、二台のピアノのための『構造(ストリュクチュール)』第一巻(1951-1952)は、まさしくこのような形式主義構造主義を究極まで推し進めたものだ。これは、三曲の『構造』から成っており、それぞれ『構造Ia』、『構造Ib』、『構造Ic』と名付けられている。もともとこれら三曲は厳格なセリー技法で書かれているのだが、その厳格さの度合いは『構造Ia』が最も強い。だいいち、もとのセリーそのものがブーレーズ自身のものではなく、彼の師、メシアンの『音価と強度のモード』のそれを借用したものなので、ブーレーズの作者としての介入は最小限にとどまっている。
ブーレーズは、この作品は「バルトの表現を借りれば、エクリチュールの零度の実験をしたの」であり、「自分が作ったのではない素材、すなわち意識的に創造の責任を回避した素材を用い」、「どこまで音楽的関係のオートマティスが行えるかを見極めようとしたのだ」と語る。
「それは、私にとって、一つの試み、いわゆる懐疑、デカルト的懐疑なのであった。つまり、すべてを疑い、遺産として引き継いできたものをご破算にし、ゼロから再出発すること。そして個人の創造を否定して、どのようにエクリチュールを再構築して行くことができるかを見極めること」。ここには「作者」は存在せず、作曲者の役割は「構造」のオートマティスムの展開を黙って見守ってゆくことだけに限られている(のち、『第三ピアノ・ソナタ』についても彼は、「このような作品を書いた動機は、<無名性(アノニマ)>の探求である」と語っている。



椎名亮輔『構造と時間  ブーレーズの時間論について』(青土社ユリイカ』1995年6月号)


ブーレーズ:ル・マルトー・サン・メートル(主のない槌)

ブーレーズ:ル・マルトー・サン・メートル(主のない槌)

Boulez Sans Boulez

Boulez Sans Boulez