HODGE'S PARROT

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狼はただ一匹か数匹か?

七匹の狼とは仔山羊たちのことにほかならず、狼が六匹ならばそれは七匹目の仔山羊(つまり<狼男>自身)が大時計の中に隠れているからだし、狼が五匹なら、それは彼が両親がセックスをするのを見たのがたぶん五時だから、そしてローマ数字のⅤが女性の両足のエロチックな開き具合と観念連合するからであり、狼が三匹なら両親がたぶん三回セックスをしたからで、二匹ならば、それは鶏姦 more ferarum する両親、でなければたぶんその子がはじめに交尾するのを目撃した二匹の犬のことである。
そして一匹の狼が出てくるのは、そもそもはじめからわかっていたように、狼とは父親のことだからであり、最後に狼がゼロ匹ならば、それが尻尾をなくしたから、去勢された者であるばかりでなく去勢する者であるから、というわけだ。
いったい誰をからかっているつもりなのか。



ジル・ドゥルーズ、フェリクス・ガタリ千のプラトー』(宇野邦一 他訳、河出書房新社)p.45

リブロ池袋店

ウラゲツ☆ブログの”「ニューアカ」系図におけるリブロ池袋店全盛期”が面白い。とくに「80年代後半から90年代前半にかけてのリブロ池袋店」についての話題は、とても懐かしい。
「地下のリブロ」はよく通っていたんだよね。ヴァイオリンの先生が西武池袋線沿いに住んでいたので、リブロ池袋店には毎週立ち寄っていた。あの頃は、紺ブレ(紺色ブレザー、ブランドはラルフ・ローレンブルックス・ブラザーズあたりで)が流行っていたので、それを着て、ヴァイオリンを片手にリブロ内を歩き回っていた。
それだけで楽しかった。まだネットもなかったし、「普通の本屋」と違う品揃えがとても新鮮だった。美術書がすごく充実していた、詩のコーナー(名前忘れた、パル…?)もあった、変なマンガも揃えてあった、現代音楽というより環境音楽みたいなのがCDショップより豊富だった。店内「散策」に疲れたら、デパートとリブロの間にあったカフェ(椅子なし、立ち飲み)で休憩、といった具合。

POP Avant-Garde Magazine WAVE またの名をサブカルのバイブル

そういや、以前、こんなのを書いたな。

坂本龍一武邑光裕ウィリアム・バロウズについて話し合い、

坂本● バロウズがそのサブ・ヴォーカル・レコーディングと言ったときに、人間の言語の発生をネガティブな要素として考えているんですよ。言語は「異星体からのビールス」という言葉に象徴されるんだけど。

   佐藤良明がトマス・ピンチョン
柳瀬尚紀ドナルド・バーセルミ
        高山宏ジョン・バース
            について語り、

そしてなんと浅田彰大原まり子のSF&ホラーを話題にした対談まである(背景キャプションが『ビデオドローム』『ブレードランナー』『ターミネイター』ってのが、ホント、嬉しくなるくらい、わかるわかる。『ビデオドローム』で主人公の腹にできた膣状陥没穴に手首を入れているやつなんて、まるでフィストファックじゃん)。


http://www.geocities.com/wiredhodge/qper08.htm#05

ドゥルーズのヤッピー的読み方

より踏み込んで言えば、いったいフィスト・ファックの実践は、ドゥルーズのいわゆる「概念の拡張」の典型事例だとでも言うのだろうか? 拳(フィスト)は新たな用途に供される──挿抽という概念が、性的挿抽と手の組み合わせによる身体内部の探索といったことにまでその適用範囲が拡張される。
フーコードゥルーズのいわゆる<他者>がフィスト・ファックをやっていたのも不思議なことじゃない、といった具合に──フィスト・ファックは、まさに二十世紀の性的発明、ポスト性的なエロティシズムや快感の最初のモデルだとでも? もはや生殖器とは無縁な手に取って代わられてしまったファルスの役割、優れて自立した部分対象による表象の貫通がまさに焦点となっている、とでも……? またいわゆる「トランスフォーマー」あるいは「アニモルフ」といった玩具、ヒューマノイド・ロボットへ変身する自動車や飛行機、人間あるいはロボットに変態可能な動物についてはどうだろう? こうしたものがドゥルーズ的だとでもいうのだろうか?



スラヴォイ・ジジェク『身体なき器官』(長原豊 訳、河出書房新社)p.346

なぜ「コイズミ・オブ・ジョイトイ」なのか?

という pikarrrさんの「選挙分析」が最高に刺激的だ。とくにここ。

言葉遊びですが、あながちおかしくもないでしょう。今回の「郵政民営化」議論において、参議院否決から、衆議院解散、選挙への流れは、すでにドラマティックであり、解散後の演説含めて、小泉首相のマジな悲壮感を感じました。そしていじめられた小泉が、僕たち国民に泣きついてきたのです。そこに僕たちは哀れみを感じ、いとおしく感じているのです。

郵政民営化」を問うんだ!、わかりやすい改革派と改革反対派という単純な2項対立、あるいは刺客?というような「ベタ」な展開さえも、みな「あえてベタ」であることはわかっているという、メタレベルのメッセージ=コンテクストに共有を見いだしています。僕たちはまんまとはまっているというアイロニカルなまなざしも持っているでしょう。しかしインリンは応援しないわけにはいかないのと同様に、「小泉首相を賛成しないわけにはいかない」のである。そこにあるのは、小泉首相のマジな悲壮感への共鳴であり、すでに巻揉まれているのです。


http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050817

さらに、pikarrrさんのエントリーを敷衍した「猿虎日記」さんの分析も。

つまり、余裕があるのです。みんな、小泉のことを「たかをくくっている」のです。「独裁者小泉をマジで熱烈に支持」なんて人はめったにいない。どこか、半分馬鹿にしているし、自分自身も半分醒めている(つもり)なのです。逆に、小泉のことを独裁者だとベタに批判する人を見ると「何マジになってんの? あんな面白いもの、支持するしかないでしょう」と嗤うわけです。小泉は危険なんかじゃないのです。……いや、危険であってはならないのです。なぜなら、小泉は、テレビの中の住人だからです。政治とは、テレビの中のプロレスと同じで、自分たちと関係ない、いや、関係があってはならないのです。だから、私たちは、安全なお茶の間にいて、四角いマットの上で繰り広げられる血しぶきを上げた闘いを眺めることができるのです。

 ところで、私たちが、メタレベルに立とうとする、すなわち優位に立とうとするのは、私たちに「不安」があるからです。その不安は、一つには〈現実〉に対する不安です。


http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20050828#p1

[music] オリヴィエ・メシアン『鳥のカタログ』『アーメンの幻影』

ジャケットがとても綺麗だったので。

Catalogue D'Oseaux / La Fauvette Des Jardins

Catalogue D'Oseaux / La Fauvette Des Jardins

  • 発売日: 2003/07/01
  • メディア: CD
Sieben Worte Fragments / Visions De L'Amen

Sieben Worte Fragments / Visions De L'Amen

メシアンが言うように、音楽は人間だけの特権ではない。宇宙もコスモスも、リトルネロで成り立っているからだ。音楽の問題は、人間のみならず、動物や四大元素や砂漠など、全自然を貫く脱領土化の力を問うことにある。だから、むしろ人間において音楽的でなく、自然においてすでに音楽的であるものを問題にすべきなのだ。そればかりか、エソロジストたちが動物に見出したことを、メシアンは音楽に見出したのである。人間の特権などほとんど存在しないこと、人間の特権があるとしたら、それは超コード化をおこない、点のシステムを作る手段にかぎられるということ。それは特権の正反対だといってもいい。



ドゥルーズ=ガタリ千のプラトー』p.354