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ある原理主義を別の原理主義で克服しようとする自閉的な権威的原理には、自己崩壊の道しか残されていない




こちらの方の8月22日付けの読書日記で見つけた、テッサ・モーリス-スズキ『自由を耐え忍ぶ』(辛島理人訳、岩波書店)の中の文章が気になったのでメモしておきたい(後日読むつもりだ)。

ある原理主義を別の原理主義で克服しようとする自閉的な権威的原理には、自己崩壊の道しか残されていない。

このテッサ・モーリス-スズキの著書は、グローバル市場経済という「イデオロギー原理主義」に対するオルタナティヴは可能か、という議論がなされているようだ。
しかし上記の引用は、僕が最近「問題化」している「クィア理論」という「イデオロギー原理主義」に示唆を与えてくれるのではないか。

それぞれ異なる差別形態を持つ性的マイノリティは、したがって、それぞれ異なる権利要求があってよいはずである。それをなぜ、強引に「クィア」というカテゴリーで十把一絡に纏められ、「特定の政治活動」に動員されねばならないのだろう──なぜ、セクシュアルマイノリティ個々人の「バックグランド」を省みず、性急な「動員化」を計るのだろうか。

なぜ、「単一の認識論」で各々のセクシュアルマイノリティの「アイデンティティ」を定義・解釈されねばならないのか。
なぜ、「逸脱」からの「逸脱」が許されないのだろう。なぜ、「クィア」という「言語の意味」の状態を強制されねばならないのだろう──それが、ある原理主義に対する、もう一つの原理主義だからなのだろうか、自閉的な。それだったら、結局、単なる「二元論」でしかない。なによりクィア理論においては、オルタナティヴそれ自体が目的化していないだろうか。
「かくあるべし」と意居丈高に選言する本当の理由は、いったい何か。「クィア理論」は、いったい、誰を利するのか。

ゲイを迫害する方法はいろいろとある。同性愛者への暴行が顕著な例だが、それで相手を根こそぎにはできない。ホモセクシュアルへの肉体的攻撃は社会一般に黙認されているばかりではなく、ひそかに奨励されてもいる。以上は周知の事実だ。
知られていないのは、ゲイへの憎悪の多くの部分が、小児性愛者はたがのはずれたホモセクシュアルだという、完全にあやまった確信によって油を注がれている事実だ。


ジャーナリズムがそのペテンの共犯者だった。この声明文が掲載されている新聞がかっこうの例になる。”同性愛的児童虐待で教師逮捕”という見出しを覚えているか? 記事内容は、幼稚園の先生と五歳の男の子だった。読者は胸に手を置いて考えてみるがいい──これはジャーナリズム業界にも向けた言葉だ──もし犠牲者が幼い女の子だったら、見出しは”異性愛児童虐待!”と叫び立てただろうか? 答えは明らかだ。その大部分は無知に起因するが、一部は意図的なものなのだ。


小児性愛者たちは慎重に”ゲイ”をよそおってきていて、大人同士の合意による同性愛への社会の容認を、子供のレイプにまで延長しようとしているのだ。いったい何人の小児性愛者が、”ゲイの活動家”を隠れ蓑にして、”まずユダヤ人がホモセクシュアルになった”という昔ながらの流言を利用してゲイを怯えさせ、”共同戦線”といったナンセンスに引き込んできたことか? 
ゲイは幼児を犯すやつらを憎んでいる。その点は異性愛者と何ら変わりはない。



アンドリュー・ヴァクス『クリスタル』(菊池よしみ 訳、ハヤカワ文庫)p.159-160

脱中心化のポイントは、たんにわれわれの信念が永遠に延期され、ずらされ、本来のかたちでは実現しないということではない。まったく逆に、われわれが論じているのは振り払えない信念、なんどもなんどもいっそう強く戻ってきて、やがては去勢された指導者の命令い従って、自分自身を実際に殺すところまで強くなるような信念である。

つまり信念は現実的である。不可能(永遠に延期され/ずらされる)であり、同時に必然的で避け得ないものなのだ。過剰な信念は、内的侵犯のいかにも「ポストモダン」な形式である。見かけとは違って、シニカルで再帰的なはずのわれわれの時代において、真の無神論者であることはますます難しくなっているのだ。


スラヴォイ・ジジェク『偶然性・ヘゲモニー・普遍性』(竹村和子+村山敏勝訳、青土社)p.343


自由を耐え忍ぶ

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偶発性・ヘゲモニー・普遍性―新しい対抗政治への対話

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