HODGE'S PARROT

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理想国家ワイマール共和国のネガ 無原罪のファルス




八田恭昌『ヒトラーを生んだ国』(新潮選書)は、ナチズムそれ自体を扱ったものではない。ナチズムを生んだドイツという国の政治、文化的「土壌」を「問題化」している。単純化すれば、ゲーテヒトラーは「一つのドイツから生まれるべくして生まれたのだ」という主張である。

文化の最大の落し穴は、世知に長けぬその非政治性にある。


八田恭昌『ヒトラーを生んだ国』p.12

そして、もう一つ単純化して言えば、ナチズムは「理想国家」ワイマール共和国から政権を「強奪したのではない」、ワイマール共和国こそが、直接的にナチズムを生んだのである、ということを「確認」することにある。
実際にナチスは合法的に政権を取った。すなわち、ワイマール共和国は第三帝国に「政権交代」をしたのである(ワイマール体制は、第三帝国を内部に含んでいた、あるいは「準備した」、もっといえばワイマールがナチズムに「変容」した、と言えるのかもしれない。どちらも、ある意味、「理想国家(ユートピア)」志向であった)。

ワイマル時代は、自称正義の味方スーパーマンが左右にうようよしている時代である。


ヒトラーを生んだ国』p.121

ワイマル時代は、あらゆるものの中点をとるベーコンの智慧からは遠かった。
(中略)
新しい文化的・風俗的実験をこころみるベルリンは、新しい関係枠組をもとめて既存の統一像を破壊する新しいモンタージュ理念の本場となる。


ヒトラーを生んだ国』p.123-124

なぜ、進歩的なワイマール体制が、ナチズムに取って代わったのか。

ワイマルの末期、ナチズムが大衆にアピールしたのは、ただナチの暴力とか、理屈っぽい社会民主党共産党がもち合わせていないその巧妙な宣伝技術にのみよるものではない。これらの教祖や予言者たちにおどらされた一般大衆のものの怪に憑かれたようなヒステリックな生活感情もまた、ナチズム育成の精神的土壌をなしていたのである。


ヒトラーを生んだ国』p.129

この文章に出てくる「教祖、予言者」とは、ワイマール時代に現れた「自称聖者」たちのことである。
古代ローマ人の袖なし肌着チュニカを着て、文明に対する抵抗を行った生活改善提唱者のアルトゥーア・グレーザー。キリスト教コミュニズムを結びつけようとしたフランツ・カイザー。平和運動の作家レーオンハルト・フランク。

既存の権威や秩序に真向から戦いをいどむアナーキスティックな心情に駆られた教祖たちは、自分の主張を絶対化する狂信的なメシアニズムから、戦後の混乱で失われた自己の存在証明を求めるよるべなき匿名の大衆に対して、強烈な自己主張によってアピールしようとした。


ヒトラーを生んだ国』p.130

彼ら「教祖」たちは、「異様な挑発行動」を繰り返した。都会文明の一切の様式を断罪し、全生活構造の変革と魂の革命を目標にした。それらはセックス革命に結びつくことが多かった、と著者は記す。

精神の革命をセックス革命と結びつける点で、ホイサーは、ラムバーティと同様だった。かれは、悩める女性を「救済する」と称して、新しい救主をはらませる権利が自分にあるのだと豪語した。


ヒトラーを生んだ国』p.135-136

革命騒ぎ、アナーキズム、アヴァン・ギャルド芸術、青年運動、生活改善運動、菜食主義やヌーディズムの運動は、既存の秩序や価値に対して絶対のマイナスの形でコミットする生活感情のあらわれであった。戦後における街頭の解放は端的にこれを象徴している。戦後、はじめて街頭は万人のものとなった。人々は大戦中禁止されていたダンスをわがもの顔で踊りまくり、街頭は大衆デモや市街戦の修羅場となった。
「街頭を解放せよ!」とは、ただナチスホルスト・ヴェッセル党歌に歌われたスローガンだけではなかった。


ヒトラーを生んだ国』p.130

このナチズムを準備したとも言える「異様な挑発行動」を繰り返す「教祖」、そして「革命さわぎ」について思うところがある。それはドゥルーズガタリ的な散逸的<対抗─権力>の危険性を指摘しているスラヴォイ・ジジェクの議論だ。

「既存の秩序」に対し、「絶対的なマイナス」を投げかける(ファナティックな)運動。それはファシズムと似ている──ファシズムを呼び起こす──のではないか。たとえ「マルチチュード」や「クィア」ように極めて現代的で最先端で洗練された思想の僧衣を纏っていてもだ。

だいたい「権力の座についた」マルチチュードクィアとは、いったいどんなものなのか。ジジェクサパティスタ運動の指導的人物、副司令官マルコスの「人物像」を意味ありげに俎上に挙げる。彼が引用しているナオミ・クラインの記述を孫引きしてみよう。

彼は命令を吼え立てる司令官ではなく副司令官であり、評議会の意志を伝える存在にすぎない。生まれ変わった彼の最初の言葉は、「サパティスタ民族解放軍の意志は私をとおして語られる」というものだった。さらにマルコスは、彼が何者なのかを詮索する人びとに向かって、自分は指導者ではなく、この黒いマスクは、あなた方自身のそれぞれの闘争を映し合う鏡だ、と一歩下がって述べた。サパティスタとは、この世の不正義と闘うどこにでもいるすべての人びとであり、「われわれはあなた方自身」なのだ、と。もっと有名な発言は、彼が記者に語った次のようなものである──それは、マルコスとはサンフランシスコのゲイであり、南アフリカの黒人であり、ヨーロッパのアジア人であり、サン・イシドロのチカーノであり、スペインのアナキストであり、イスラエルパレスチナ人であり[……]、午後十時の地下鉄に乗っている独身女性であり、土地なき農民であり、スラムのギャングであり[……]と。他方、無私の人、メッセンジャー、そして鏡と自称するマルコス自身は、非常に個人的で詩的な、完全にそして紛う方なく彼自身である筆致で書いている。


スラヴォイ・ジジェク『身体なき器官』(長原豊 訳、河出書房新社)p.373-374

何者でもなく、何者でもある。この仮面X、この主体X、このアイデンティティX、もしくはこのシニフィアンXは、どのような効果を──政治的に──及ぼすのだろうか。
それは他者に「原罪」を擦り付け、(抵抗する)発言を奪うものだ。誰よりも優位な位置に居座り、特定の思想・信条を強要することだ。

ジジェクはマルコス副司令官の不気味さを指摘する。それは「私をとおして意志が語られる」だ、と言っているのではないか、と。それは「私を攻撃する者は誰でも、実質的に、諸君すべてを、全人民を、自由と正義へ愛を告げる者を攻撃する者である」という、脅し・恫喝なのではないか、と。

Xという仮面、Xという主体、Xというアイデンティティ、Xというシニフィアンは、自分だけが「無原罪」であると──国王・エンペラー・独裁者よろしく──布告しているのではないか。
自らを「X」として非・現勢化する「構造」は、現実に存在する実態的な国家権力の構造の倫理的─詩的な影のような分身としてのみ機能することができるのではないか。

ハートとネグリのお題目(スローガン)──<帝国>にたいする抵抗の場すなわちマルチチュード──は、さらなる一連の問題を曝け出すことになる。なかでも基本的な問題は、マルチチュードが作用するレヴェルについてである。言い換えれば、マルチチュードに与えられた領野が排除すること、マルチチュードが機能するために排除せねばならないことにまつわる問題である。


『身体なき器官』p.370

マルチチュード」や「クィア」は、いったい、何を破壊し、何を排除するのだろう──それが機能するために。「抵抗」を論じるマルチチュードクィアは、自分たち自身が「権力の座」にあることを、いったい、どのようにして理解できるのか。

ビル・ゲイツについて話しておかねばならない幾つかのお噺がある。ビル・ゲイツについての第一のお噺は、アメリカのサクセス・ストーリーというやつである。たった四半世紀前に、若造が近所の人や親戚から笑えるほど小額の金を借りてガレージで会社を始め、いまや世界一の金持ちになったというお噺だ。それは、アメリカが与える無限のチャンスを示すもっとも最近の証拠であり、アメリカン・ドリームのまさにもっとも純粋な事例とされている。
ビル・ゲイツについての第二のお噺は、彼が嫌ったらしい独占屋で、私たちが憎むことに喜びを感じるその奇妙な笑いをたたえた邪悪な支配者であって、それはアメリカン・ドリームの裏面、アメリカ的パラノイアの典型的な容姿の一つだというものである。
その一見反資本主義的なスタンスにもかかわらず、この第二のお噺は第一のそれと同様程度にイデオロギー的である。というのもそれが、もう一つの神話によって支えられているからだ。
その神話とは、アメリカの自由とか、ウォーターゲート事件を告発したジャーナリストに始まりノーム・チョムスキーに至るまで、悪い制度を破壊する自由の闘志といった神話である。要するに、これら二つのお噺が共有していることは、社会闘争を人格化するに当たって現れる物神化である。


スラヴォイ・ジジェク『身体なき器官』p.424-425

さらにジジェクが『身体なき器官』で引用しているブライアン・マッスミの「資本主義」の定式とはどんなものであるか、確認しておきたい。

変化に富めば富むほど、また突飛であればあるほど、よい。正常さはその根拠を失い始めている。規則性も緩み始めている。常態のこの弛緩が資本主義のダイナミズムの一部となった。それはたんなる自由化ではない。資本主義自身が有する権力の形式である。もはやそれは、すべてを規定する規律的で制度的な権力などではなく、変異を産出する資本主義の権力なのだ──というのも、市場が飽和状態にあるからだ。変異を産出せよ。そうすれば市場の隙間を創り出せる。情動的傾向のうちでももっとも奇態なものがよい──採算が合うなら

資本主義は情動を強(度)化し多岐化させ始めている。剰余価値の搾出という目的があるだけだ。資本主義は利潤産出の潜在力を強(度)化するために情動を乗っ取った。それは、文字通り、情動を価値実現─価値増殖させる。剰余価値の資本主義的論理は、政治的環境(エコロジー)の領野でもある関係的領域、同一性(アイデンティティ)や予測可能な筋道への抵抗の倫理的領野を接収するために出立する。それはまさに困難と混乱に充ちている。というのも、資本主義的権力と抵抗という二つのダイナミクスのある種固有な収斂が存在するように、私には感じられるからだ。


スラヴォイ・ジジェク『身体なき器官』p.347

「支配コード(規範・制度)」を告発するマルチチュードクィアは、それ自体、存在論的に、「支配コード」に依存しているのではないか。その存在自体が、「資本主義の権力」によって産出されているのではないか。マルチチュードクィアと自称する連中は、それに気づいていないのではないか──あるいは都合良く忘れているのか。
それなのに、連中のやり方は、旧態依然たる左翼よろしく、「支配コードにいる、と想定される/と断定した」人たちへの「人格攻撃」、すなわち「彼らの正義」に反する「体制」への「共犯者」というレッテル貼り──「脅し」である。

すなわちファシズムを支える考え方は<より高度な目的>への犠牲的従属、生の否定、断念であり、それは、生の否定として機能する非人格的なミクロ戦略、強度の操作に依拠している、と。
ここでの構えは、しかしより複雑になっている。ファシストたちの断念[自己犠牲]は、超自我が有する忌まわしい享楽の一つである欺きの仮面、ファシズムが有する現勢的なイデオロギー的機能の肯定─実定性から──最良のドゥルーズ的なやり方によって──私たちの注意を逸らす罠なのではないか?
ここでは要するに、ファシズムは、偽りの犠牲、大きな<他者>を欺き、私たちが確かに愉しむ、さらには過度に愉しみさえするという事実を大きな<他者>には内緒にしておくことにするといった、享楽の表面的断念の旧態依然たる偽善ゲームが行われているのではないだろうか。


スラヴォイ・ジジェク『身体なき器官』p.353

体制破壊、制度解体は、メイド・イン・アメリカクィア理論のスローガンであるらしいが、それらは、いったい、誰を利しているのか。「大きな<他者>」に向けた、「大きな<マニフェスト>」は、何か忌まわしい享楽から注意を逸らす罠なのではないか?

小児性愛者たちは慎重に”ゲイ”をよそおってきていて、大人同士の合意による同性愛への社会の容認を、子供のレイプにまで延長しようとしているのだ。いったい何人の小児性愛者が、”ゲイの活動家”を隠れ蓑にして、”まずユダヤ人がホモセクシュアルになった”という昔ながらの流言を利用してゲイを怯えさせ、”共同戦線”といったナンセンスに引き込んできたことか?


アンドリュー・ヴァクス『クリスタル』(菊池よしみ 訳、ハヤカワ文庫)p.160

どうして、セクシュアルマイノリティというだけで、「外国の侮蔑語」で十把一絡げに「カテゴリー化」されなければならないのだろう。なぜ「かくあるべし」と<強制/矯正>されなければならないのだろう。
<帝国>生まれのクィア理論は、どうしてこうも、それぞれ異なったセクシュアルマイノリティ個々人の「バックグランド」を省みず、性急な一般化と譫妄を恣にしているのか──なぜ、それぞれ異なっているはずの性的マイノリティを、「同じ尺度」で、規定・解釈されねばならないのだろうか。

それぞれ異なる差別形態を持つ性的マイノリティは、したがって、それぞれ異なる権利要求があってよいはずである。それをなぜ、強引に「クィア」というカテゴリーで、強制的にパラノイックに「積分=統合化」(インテグレーション)されねばならないのだろう。性急な一般化=クィア化こそは、国家装置による「人民の国民化」と同じような「コード化」の構造なぞっているのではないか。それこそ「抑圧装置」そのものではないか。「脅し」と「矯正/再教育」で、人を監視・支配する権力装置ではないか。
何より──クィアという「理念(イデオロギー)」からの──「逸脱」を許さないのは「クィア・エリート」の方ではないか。「クィア」が狙っているのは、それぞれ異なる性的マイノリティの「自由・権利」を奪うこと、すなわち「再領土化」を計っているのではないか。

なぜそのようなことをするのか。

クィア化」に潜んでいる「欲望(の欲望)」は、いったい何なんだろう。そこで作動している「権力」は、いったい、何なんだろう。できるだけ多くの他人を「クィア」として表象させておくメリットは、いったい、何か。

「そんなふうに子どもをだまして何の得があるっていうんだ?」と、おれはきいた。
「子どもには選挙権がないからね」と、パブロは答えた。


アンドリュー・ヴァクス『赤毛のストレーガ』』(佐々田雅子 訳、ハヤカワ文庫)p.407

ジジェクは「自己─組織化された市民社会」を荒廃させるために、権力者が「ドラッグ」をどのように使えばよいのかを十分知っていたと指摘する。すなわち「ドラッグ」は、「自己─組織化された抵抗」に対する「権力者の武器」になるのだ、と。

またそうした視点から、おそらくは「ドラッグの政治」へと接近することもできるであろう、新たな方法さえ浮かび上がってくる。すなわち、一九六〇年代の叛乱[敗北]後のアフリカ系アメリカ人のゲットーや一九七〇年代の労働者の騒乱[敗北]後のイタリアにおける都市から始まり、現代の貧民窟住居にまで至る、法─外の人々の強力に自己─組織化された集団が出現するために、それが強烈なドラッグによって即座に崩壊の憂き目に遭うといったことは、本当に、偶然と言えるだろうか?


『身体なき器官』p.378

クィアソビエトの収容所か? 毛沢東の「文化大革命」か? それとも……。

と、すれば、次のような素朴な質問をせねばならないだろう──すなわち、抵抗としてのマルチチュードとしてだけではなく「権力の座に就いたマルチチュード」とはいかなるものか、という質問である。それはいかに機能するのだろう?


『身体なき器官』p.371

ドラッグ=「その」享楽ではないか。
クィア理論は、結果として、いったい誰を利するのか。どんな「結果」を呼び起こすのか。

しかし、情報的な「マルチチュード」が機能できるために維持されねばならない物質的、法的、制度的などの諸条件の複雑なネットワークについてはどうだろう? ナオミ・クラインが「権力の脱中心化」といっても、医療介護、教育、手頃な住居や環境保護といった、強力な国内そして国際基準と、その安定的で公平な財政補助の放棄を意味しない。むしろ左翼は、『財源の増加』から『草の根への権力委譲』へと、そのスローガンを変更せねばならなかった」と書くとき、私たちは次のような素朴な質問をせねばならないだろう。
すなわち、その方法は、と。これらの強力な基準や財源、要するに、福祉国家の主要な構成要素は、どのように維持されねばならないのだろう?


『身体なき器官』p.378

制度破壊を問題とするのならば、まず、「クィアという制度」を、微分=差異化(ディファレンシエーション)して、「解体」すべきなのではないか。
そう、クィアイデオロギーという妖怪が徘徊している。
とすれば、私たちは、「クィア」という支配体制=潜在的ファシズムに/から、闘争/逃走しなければならない。権威主義的抑圧をもたらす「無原罪のX」という異常な位置に居座る卑劣な独裁者(「異常者」の/としてのファルス)を「去勢」しなければならない。


ヒトラーを生んだ国 (新潮選書)

ヒトラーを生んだ国 (新潮選書)

身体なき器官

身体なき器官