HODGE'S PARROT

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AがBの利害に反するようなやり方でBに影響を及ぼすときAはBに権力を行使する




盛山和夫『社会科学の理論とモデル3 権力』(東京大学出版会)を読んだ。「権力」と言えば「フーコーの」というディシプリン状況において、それ以外の権力モデルを紹介する……のみならず、フーコーの権力論を批判しているのが、とても、新鮮だった。

フーコーの権力論への批判──というより疑問──は、主に『性の歴史 知への意志』に向けられている。

Power も Pouvoir も何らかの「能力」である。能力とは、何かをなし、作り、生じさせる能力であり、そこには「なす」ものとその対象、「作る」ものと「作られるもの」、「生じさせる」ものと「生じさせられるもの」との対立が予定される。主体─権力論では、さしあたってそうした為能者は「知識」であり、「真理」である。しかし、先ほどから述べているように、知識や真理はあくまでも当該個人のうちに在るものである。
それは彼女/彼自身である。うちに在るものがいかにして自分自身に対して「権力」でありうるのだろうか。

フーコーとそのフォロワーたちは、知識が個人を主体化するという営為に潜むこの困難を微塵も感じていない。彼らにとって、知識とは本来的に個人の外部にあって、個人を支配し制御するものである。


p.137

このとき、以下の二つの問題が生じるはずだ、と著者は指摘する。

  1. 何らかの意味で「権力によって拘束されてはいない個人」の概念が必要になるのではないか。
  2. フーコーが権力によって個人が形成されるというとき、具体的に形成されるといっているのは個人の知識であり欲望である。セクシュアリティに関する議論では、その証拠として挙げられているのは、フーコーによって権力を持ったとされる知識の生産者の側のものだけである。例えばフロイトエディプス・コンプレックスについて長々と論じたために、本当に男の子たちは自分の母親に性的欲望を抱くようになったのだろうか、と。

上記のような著者の疑問を引用したからといって、僕自身も「フーコー精神分析批判」に異議を唱えているのでは、まったくない。精神分析は「単なる差別知」であることに変わりはない。

問題は、フーコーの権力論を援用した理論──例えばクィア理論──が孕む「革命神話のアジテーション」である。それ自体が「扇動者」になる、逆転の勝負=ゲームである。「さもなければBがなさなかったような事柄を、Bになさしめる度合いに応じて、AはBに対して権力を持つ」(R・ダール)ということである。

盛山和夫は以下のように述べる。

「権力のある所には抵抗がある」「それは社会の内部に、移動する断層を作り出し、統一体を破壊し、再編成をうながし、個人そのものに溝を掘り、切り刻み、形を作り直し、個人の中に、その身体とその魂の内部に、それ以上は切りつめることのできない領域を定める。……そしておそらく、これらの抵抗点の戦略的コード化が、革命を可能にするのだ」(フーコー『知への意志』p.123-124)

またしても「革命」神話である。一体どんな革命が可能だというのか。同書(=『知への意志』)のずっと終わりの方で、彼はこう語る。「もし権力による掌握に対して、性的欲望のさまざまなメカニズムの戦略的逆転によって身体を、快楽を、知を、それらの多様性と抵抗の可能性において価値あらしめようとするなら、性という決定機関からこそ自由にならなければならない。性的欲望の装置に対抗する反撃の拠点は<欲望である性>ではなくて、身体と快楽である」。

してみると、フーコーにとっては、「身体と快楽」とがある種の「本来的なもの」「真正 authentic な」ものなのであろう。それが、近代主義的な「自由で自立的な個人」よりも本当にそうであるかどうかをあげつらう必要はとくにないだろう。フーコー自身は何の説明も証明もしていないし、それが可能であるはずもない。
「身体と快楽」は、「個人と欲望」という近代主義的なセットに代えて設定される社会ないし世界の単位であり、後者から知的要素と精神的要素をできるだけ剥ぎ取った概念である。それをもとにどういう「社会」を構想しうるのか正直に分からない。


p.141-142

こう記した後、著者は、フーコーの「抵抗の拠点=言説」は、ブルデューの「象徴権力論」と同じであり、つまりそれは──古臭い用語を使えば──、一種の「イデオロギー闘争」であると看破する。

そして、冒頭で問題にした「無数の力関係」というイメージは、この無数の言説がありとあらゆる方向に飛び交い、対立と衝突を繰り返すさまを表現しているのだと理解することができる。
(中略)
……いずれにしてもこれは当初の「権力/知」図式とは合致しない。なぜなら、さまざまな相対立する言説が力関係の戦術的要素として飛び交っているのだとすると、そこでの「権力」は言説の言説に対する、あるいは知識の知識に対するものであって、決して、知識の個人に対するものではありえないからである


p.142

「知識(権力)の個人に対するものではありえない」ということに注目したい。このことは、最近、僕が疑問に思っている「クィア理論」にも通じる「問題」である。つまり、フーコーの権力論・セクシュアリティ理論に依拠した「クィア理論」は、結局、個人(性的マイノリティ当事者)のためにあるのではなく、別の「誰かの」イデオロギー闘争のためにあるのではないか、と考えられるからだ。

理論は、いったい、誰を利しているのか。セクシュアルマイノリティは、その「イデオロギー闘争」に巻き込まれ/利用されていないだろうか。

さらに、日本の社会学宮台真司大澤真幸とによる「利得」概念を用いたゲーム理論的な権力の定式化がある。二人ともできるだけ厳密に定式化しようとしてやや複雑な定義文を提示しているが、分かり易く述べれば、「Bの行為選択に接続するとBに了解されているAの行為が、さもなければBにとって最適である行為選択を最適でなくしてしまうとき、AはBに対して権力をもつということである。
(中略)
実はこれはもっと単純にいってしまえば、「君が○○しなければ(すれば)、私は××するよ」と言って、他者に行為○○を強いる(回避させる)やり方を形式的に記述したもので、脅しや誘導の現象である


p.6

もう一つ、「クィア理論」に関して疑問がある。かりにフーコーのいうように、セクシュアリティの装置によって、様々なセクシュアリティが「産出」されたからといって、そこに何の問題があるのかだ。欧米のように、同性愛やバイセクシュアル、トランスジェンダー/セクシュアルなどが「承認」され、市民権が与えられつつある現在、たとえ他のセクシュアリティが産出されたとしても、同様の「承認」を受けていくだろう──それは決して階層化ではない、生じるのは承認プロセスの遅延だけだ。

そうなった場合に、これまで、言語の意味での「クィア」と呼ばれた人々が、次々に主体化/正常化されていったとき、どうしても現在の「常識、理性、直感」では「承認されざるセクシュアリティX」が最後に残されるかもしれない。
それを食い止めるために、現状の性的マイノリティを「できるだけクィアのままに、主体化/臣民化」しておく─押さえておく──権力が作動していないだろうか

チェスタトンの言葉が浮かぶ。「木の葉は森に隠せ、そして死体を隠すために、戦争を仕掛けろ」と。

クィア理論は、いったい、誰を利しているのか。できるだけ多くの人を──その意に反して──「外国の侮蔑語」で十把一絡げにまとめあげ、「共同戦線」を呼びかけることによって、どんな「セクシュアリティX」が利するのか。

おれがいおうとしていたのは、それなんだ。何にだって、ルールがあることだ。公平なルールでなくたっていい。おれが最初に少年院に入れられたとき、おれよりでっかいガキがからんできた。おれはやつのいいなりにはならなかった。それで喧嘩になった。やつはおれをさんざん殴りはしたが、屈服させるのは無理だと知った。次に舞い戻ったとき、おれは年もくって、利口にもなっていた。やつらはまた新しいゲームを始めてた。みんな、ぐるになってだ。それは、小さい子を脱走させるんだ。夜中に抜け出すように仕向けてな。それから、みんなで追っかけて捕まえる。その子が糞をちびるほど痛めてつけておいて、引きずり戻す。やつらはその後で、ほうびに帰宅を許されるって寸法だ。やられるほうにしてみりゃ、レイプされるのと変わりはない。


アンドリュー・ヴァクス『ブルー・ベル』(佐々田雅子 訳、ハヤカワ文庫)p.405

小児性愛者たちは慎重に”ゲイ”をよそおってきていて、大人同士の合意による同性愛への社会の容認を、子供のレイプにまで延長しようとしているのだ。いったい何人の小児性愛者が、”ゲイの活動家”を隠れ蓑にして、”まずユダヤ人がホモセクシュアルになった”という昔ながらの流言を利用してゲイを怯えさせ、”共同戦線”といったナンセンスに引き込んできたことか?


アンドリュー・ヴァクス『クリスタル』(菊池よしみ 訳、ハヤカワ文庫)p.160

「人種差別っていうのは麻薬みたいなもんだよ、バーク──本来、必要なものをわからなくしている──みんな、馬鹿だってわかっていながら、とりあえずそれにすがるんだ」
おれは交通整理のおまわりみたいに手をあげて制した。
「ちょっと待った、兄弟。あんたの話はどんどん先に進むんで、ついていけないよ。そんな話と子どもの強姦とどういう関係があるんだ?」
「同じことだよ。政治というのは、大衆の面前に示される現実をコントロールしてるんだ。いいかい、フロイトによれば、子どもと大人のセックスは幻想でしかない──子どもの頭の中にある何かなんだ──両親に対して抱く性的な感情と同じように想像の産物なんだ。そういう感情が実際に存在してるってことは知ってのとおりだ──たとえば、オイディプス・コンプレックスみたいにね。ただ、子どもがみんな、そういう感情を抱いているってことで、近親相姦の事例までが幻想として否定されるわけじゃない。そういうことがあるのだと確認するまでは長い時間がかかったがね。政治的に見れば、近親相姦なんて幻想だと思われてるほうが都合がいいわけだから。医者も被害者になった子どもに治療を施したが、その”治療”はいんちきだった──子どもたちに嘘を信じ込ませ、自分はおかしいのではないかと思わせてしまった」
「それが子どもたちを……」
「狂わせてしまう。そうなんだ、結果的にそうなってしまった。狂気を演じていた子どもたちは、もともと狂っていたという事実の証拠として、それをあげられてしまうんだ。わかるかね?」
「だが、なぜだ? 自分の子どもをファックしたやつを擁護しようなんて連中がいるのか?」


アンドリュー・ヴァクス『赤毛のストレーガ』(佐々田雅子 訳、ハヤカワ文庫)p.405-406

「そんなふうに子どもをだまして何の得があるっていうんだ?」と、おれはきいた。
子どもには選挙権がないからね」と、パブロは答えた。


アンドリュー・ヴァクス『赤毛のストレーガ』p.407

われわれに実際にわかっていることを話そうか──そんなに時間もかからないだろうから。子どもたち──よその子どもや自分の子ども──とセックスしている大人をわれわれも知っている。そして、それが力と関係しているらしいってこともわかっている──大人が子どもに対して持っている力とね。実際、子どものセックスは、われわれがふつうに理解しているようなセックスじゃないんだよ、バーク。
(中略)
小児愛者というのは、インテリほど自分の行為を巧みに正当化するものだが、ほんとのところは実に簡単なんだ──自分のやっていることは間違っていると承知の上でやっているんだ」


アンドリュー・ヴァクス『赤毛のストレーガ』p.408

「あんた、ほんとに彼らを憎んでいるのね、違う?」上体がぐっと寄せられたので、その息が感じとれた。
「誰を?」
「子供の敵」
「憎まないやつがいるか?」と答え、その言葉を無視した。


アンドリュー・ヴァクス『クリスタル』p.293-294

もっとも広く人口に膾炙している権力の定義は、社会学者のM.ヴェーバーが大著『経済と社会』の中で述べているもので、「権力(Macht)とはある社会関係の中において、抵抗を排除してでも、自己の意思を貫徹しうるおのおのの可能性を意味する」とされる。この概念の焦点は「意志を貫徹する」というところにある。


盛山和夫『権力』p.2

「AがBの利害に反するようなやり方でBに影響を及ぼすときAはBに権力を行使する」(S.ルークス)