HODGE'S PARROT

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仮想化しきれない嘘

HODGE2005-07-30

社会主義とは、多くの点でみせかけとごまかしだ、と私は前にいった。社会主義は、ものを約束するときには嘘をつき、ものを解読するときには誤り、そしてみずからそう名乗っているところの未来においての選択ではないし、またありえないとも言った。だが、私は今、それにこうつけ加えたい。つまり、そうした間違いをおかしながら、社会主義はまた、それなりの具体的な効果を産み出すのであり、たとえ人間たちに幸福をもたらすことができないとしても、幸福をもたらすことができるのだとあくまでも人々に信じさせることによって、不幸をもたらすことができるのだ。この罠はまた、破局にもなりうるのだ。

だが、そう言ったからといって、私は何も型通りの用心を繰り返し説こうとするつもりではない。私はただ次のことを指摘したいだけなのだ。すなわち、社会主義の言説を文字通りに受け取り、社会主義の実践を根元から見るなら、社会主義もまたこのうえなく真面目に<資本>の夢を語り、具現しているのだ。<資本>の夢を思考し、表現しているのは皮肉にも社会主義であり、名づけがたいものを名づけ、これに存在論的な基盤を与えているのが社会主義なのだ。
(中略)
さらに、マルクス主義の理論そのものも、真理の生成としての世界、世界の生成としての真理というヘーゲル的夢を神聖なものとするがゆえに、ひとつの理想への到達にほかならないこともよく知られている。そして、この理想への到達とは、のちにみるように近代の僭主政治の定義のひとつなのである。<資本>とは<西欧>の帰結であることが事実ならば、スターリニズムはこの帰結の帰結であるといえる。<資本>が頽廃の没落であることが事実ならば、同様にしてスターリニズムはこの没落の頽廃だということになる。

<収容所>とは何か? <啓蒙思想>から寛容を差し引いたものである。五ヵ年計画とは何か? ブルジョワ的経済主義に恐怖政治(テロル)と警察を足したものである。権力についた社会主義とは自由主義的幻想の知のことであり、権力を行使する社会主義とは<資本>の誤りのことなのだ。


ベルナール=アンリ・レヴィ『人間の顔をした野蛮』(西永良成訳、早川書房)p.147-148


クィア理論という「理論」は、いったい、誰を利しているのか。そんな疑問が急速に高まってきた。
そのあまりの「ユートピア」志向、エリート主義的=研究者至上主義的体制、そして、それぞれ異なっているセクシュアルマイノリティ当事者の、それぞれ「異なっている差別形態」したがって「異なっているはずの権利要求」を認めない雰囲気。

何より気になるのは、その「左翼」政治信条の強制だ。「反体制」「解体」……これらのアジテーションには、個人的に、どうしても注意したくなる。

そこには、セクシュアルマイノリティ個々人の「人権」よりも<前に>観念的理念の「整合性」を推し量る「実験」はないのだろうか。「クイアー理論」がセクシュアル・マイノリティ当事者を「縛る」「規定する」危険性はないのだろうか。セクシュアルマイノリティが、「誰か」の「特定の」政治的活動に「利用」されることは、ないのだろうか。

このことについては、もう少し詳しく考えてみたい(一部のフェミニズム理論とともに。例えば「観念的」であるはずの「イマジナリーの領域」を、転倒させ「現実化」させた世界は、はたしてどのような世界なのか)。
とりあえずメモとして、いくつかのテクストを引用しておきたい。

脱構築を始めとするポスト構造主義の理論の支持者は逆に、カルチュラル・スタディーズポストコロニアル批評のこうした(=政治的な)態度を軽蔑することが多い。

香港出身でアメリカのカルチュラル・スタディーズを代表するレイ・チョウは、その理由を考えて言う──ポスト構造主義の理論が「他者」を重視してもそれは、結局ヨーロッパ内部でおのれの伝統に反抗するための抽象概念に過ぎなかった、それに対して新しい批評は、ヨーロッパの外部の生身の他者(たとえば非西洋の旧植民地の人間)をつきつけるため、理論は自分の専売特許を本物に奪われたような脅威を覚えるのだ、と。

自己同一性への懐疑と他者の重視は、ポスト構造主義の理論が始めたように見えるが、実は、理論こそが、ヨーロッパが植民地主義の暴力を通じて他者を支配したいという歴史性のなかから生じ、それを基盤にしているのだ、と彼女は主張する。


田尻芳樹「空虚な中心への旅──脱構築批評」(講談社『批評理論』p.87)

▽ ベリヤって誰?


▼ スターリンの秘密警察の長官さ。毎日のようにクルマでモスクワ市内を流しては、美人を見つけると連行して強姦し、あとは囚人の平均寿命三ヶ月というようなシベリアの収容所に放りこんで、ひとり残らず処分していたという極悪非道の野郎だ。

ポル・ポト時代の四年間に、カンボジアでは社会主義理念のユートピアが戯画的に実現されたんだ。そして世界は、社会主義理念の徹底的な実現が、陰惨なユートピアの戯画にしか行きつかないということを、反論の余地もなく説得的に実物教育された。

半世紀にもわたり、先進諸国の「良心」的な社会主義者は、スターリンのロシアや毛沢東の中国が、かならずしも理想社会とはいえないと弁明してきた。
そこには多くの歪があり、遅れがあり、行きすぎがある。にもかかわらず、それらは将来克服されるだろう小さな弱点であり、この弱点だけをとりあげて社会主義を否定するような者は、つまるところ新植民地主義の従属体制や高度管理資本主義の構造的抑圧という、さらに巨大な悪や不正を肯定する結果になる。

条理をつくした自分たちの説教に耳を貸さないような連中は、ようするに帝国主義の手先であり、その連中こそポル・ポト派の虐殺収容所の囚人にふさわしいのだと、「良心」的な反省の声は、いつしか居丈高な恫喝の叫びに転じていくというわけさ。


笠井潔ユートピアの冒険』(毎日新聞社)p.41-42

ゴーマニズム宣言」で、薬害エイズ被害者支援を訴え、製薬会社と厚生省の犯罪を早くから精力的に告発してきたマンガ家小林よしのりは、一九九六年、彼の呼びかけで抗議運動へ加わった若者たちが、権力へ抗議する充実感に酔い、次はこれをやれと命令してくれるセンターを欲しがり、共産党などに洗脳、組織されてゆくのを目のあたりにした。


浅羽通名アナーキズム』(ちくま新書)p.268

「いわゆるアナーキズム」とはつまり、国家といった大状況を前提に、権力支配なき相互扶助の理想社会が、即時、実現できるとする政治思想だ。この夢は自然、約束された即時実現を求めてのテロリズムや直接行動を誘引せざるをえない。だが、大状況において、そうした実践が理想実現の端緒をつけた例はないという史実を、まず直視せよと鶴見(=鶴見俊輔)は説く。殊に、アナーキズム実現を必然とするような「決定論的世界像」を立てたり、「アナキスティックな構想のうみだした何かの行動原則を教条として守る」のは、アナーキズムの自殺を招くのだ。


浅羽通名アナーキズム』p.202-203

実際、彼らは後、自分のセクトだけが正しく、他のセクトは誤った理論を奉じる裏切り者だと断じて宗教戦争もどきの襲撃をやり合ったり(内ゲバ)、あるいは同じセクト内の同士をいまだ十分に革命的でないとして、異端審問まがいのリンチにかけ殺したり(連合赤軍事件)した。結局、かつて彼らが批判した共産党以上に陰惨な権力性を露呈させてしまったのである。


浅羽通名アナーキズム』p.138


Gays To Sue “Homophobic” Moscow Mayor Luzhkov for Banning Gay Pride [MOSNEWS]

The statement by Mayor Yuri Luzhkov came as a response to Thursday’s announcement by Russian gay and lesbian activists, that they will apply for a permit to hold pride celebrations in Moscow next May. If it is granted it would be the first pride parade ever held in the Russian capital. Speaking at a news conference, Nikolay Alekseyev, leader of the Gay Russia.Ru project, said the projected date is May 27, 2006 — the anniversary of the abolition of laws against homosexuality in 1993. Soviet laws deemed male homosexuality a criminal offence, punished by several years’ imprisonment.


以前書いたベルナール=アンリ・レヴィ『人間の顔をした野蛮』のレビューより

ソ連は周知のように、同性愛者を取り締まり、シベリア送りにした。映画監督パラジャーノフもそうだった。しかし、日本のマルクス主義者たちの<セリフ>は何だったのか? パラジャーノフは反体制だったため<無実の罪を着せられ>収容所に送られた──こんな「文言」ではなかったか。彼らマルクス主義者たちは、「罠に嵌められた」パラジャーノフには同情するが、そもそも「同性愛を取り締まる法律/体制」自体に異議を唱えたか? 「追認」していたのではないか。僕はそんな彼らの「人権感覚」は信用できない。


(だからこそ、こういったソ連の同性愛者迫害を知っているから、僕は、あるフリー・ライターがロシアの作家の同性愛問題を「やおい」と呼び茶化したことに、激しい憤りを感じた。「やおい」はそのもの自体が持つ侮蔑性に加え、シリアスな問題を何かしらの意図を持って「すりかえる」ときにも使用されるんだな、と)


「西欧流の人権」なんて存在しない。「人権」は「人権」だ。何処でも普遍的であるから「人権」なのだ。

現在、同性婚、同性パートナー制を認めているのは、すべて「自由主義諸国」(あるいは「資本主義諸国」)だ。